わかりすぎる歌・挽歌・相聞歌ー第326回心の花宮崎歌会
2018-08-05
「深刻さの押し付け」ではなく「心清らかに」夫への愛情があるからこその描写
わかりすぎる・完結しすぎる・叙景歌の背景は・・・
「心の花」120年記念大会から1週間、毎月定例の宮崎歌会が開催された。この日は市内中心部大淀川沿いでは花火大会が催され、市内へ移動のバス内にも着なれない浴衣を纏ったカップルの姿などが目立った。僕自身もそう頻繁に着用するわけではないが、この時ばかりに取ってつけたような和装の立ち姿は、ある意味で滑稽に見えてしまう。帯の結び方、その他の着こなしなど和装にして外国人が纏っているような錯覚を起こさせる。それでも尚、こうした折に和装を纏うだけよいのかもしれない。留学生の面倒を見ているという宮大短歌会の学生も、歌会に浴衣で現れたが、それはそれである種の”こなれた”印象を受けた。『古今集』仮名序ほか多くの歌論が語るように、歌も「姿(さま)」が重要であるのは周知のことだ。「姿(さま)」すなわち「歌体」、心と詞が交響し表現される情景描写と言えるであろうか。『古今集』仮名序では中国の詩論の影響も受けて、この「姿(さま)」を6種類に分類し示している。
さて、この日の歌会で印象に残った批評のダイジェストを冒頭に示した。挽歌であっても「深刻さを強調」する「姿」のみならず、心清らかなことを述べる「姿」があると伊藤一彦先生。そこにも「詠者の生き様」が表れると云う。「テーマ」「素材」に即した「文体」があるのは確かだが、そこにも個々の「心」のあり様が浮き上がるものである。また、夫の持つ単なる野菜の描写などに、相聞(恋)の気持ちを読める歌もある。夫への愛情がなければ、手に持つ野菜をそこまで繊細に描写はしない、という相聞歌の読みがまた人間味が深い。叙景歌などでも、素朴な「姿」にどんな心を読むか?やはり歌の種(たね)は「心」にほかならない。さらには「姿」が良過ぎてわかり過ぎる歌も、面白みに欠けるという評があった。面白みを狙い過ぎて力んだ歌もよくない、と自らの歌への評を聞いて省みるところだが、やはり自らの「姿」=「文体」への限りなき模索が求められるのだと学んだ。最後に、具体的なお店の名前など「固有名詞」を含む歌、最近の若い人にも目立つという指摘。これまた「姿」を獲得し徹すれば塚本邦雄よろしく、にわか仕込みの浴衣にならない工夫が望まれそうだ。
花火は夜空に上がれば消えるが
歌会での学びは会員諸氏の今後の歌に表現される
夏のとってつけた風物誌よりも「短歌」の「姿」が好きだ。
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