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「羨し(ともし)」は「乏し」ゆえにこそ

2018-08-03
「求む(とむ)」からの派生
「物事の客観的状態」(乏し)
「対象に対する話し手の感情」(羨し)

言語は時代とともに変遷し、音声・文字・語彙・文法の要素があれこれと移り変わってきた。まさにことばは時代とともに鮮度ある「生もの」であり、時代時代を生きる人間によって大きく変転されるものでもある。したがって時代相に合わなければ消えてゆき、また新たな語彙や文法が生成されることの繰り返しである。明治以降の近代化150年の歴史を振り返り、こうした言語の問題についてもやはり、考え直してみたいことがたくさんあることに気づく。「国民国家」樹立のための共通言語として思想的な意味を含む「国語」の制定に尽力した上田万年(かずとし)の書き記したものに、「和語(やまとことば)を巧みに日本語に活かすには、短歌の果たす役割が大きい」といった趣旨のものがある。新たな文体を模索した明治後半から大正・昭和にかけての時代において、文芸以上の社会的存在としての「短歌」を価値づけする発言として傾聴に値する。

『万葉集』を読んでいるとこうした「やまとことば」に出逢うわけだが、「羨し(ともし)」という語彙が気になった。「見まく欲り来(こ)しくも著(し)るく吉野川音のさやけさ見るに友敷(ともし)く」(巻9・1724)などの用例が『日本国語大辞典第二版』にある。その語義には「珍しくて心がひかれる・めったに見られないくらい、すばらしい。まれなので新鮮な感じがする。」とある。そこからより対象に心が向くと「自分にはないものを持っている人などをうらやましく思う。」という現代語の語義に近い意味が示されている。だが音としての「ともし」には、こうした「羨ましい」という語義で使用されることが、中古以後はほとんどなくなってしまうと同辞典の「語誌」欄に見える。これは新たに「ウラヤマシ」という「恵まれた状態にある相手にあこがれ、自分もそうなりたいと思う感情」の語義を持つ語に代替したと説かれている。また「語源説」には「友ホシヒ」や「友如(トモシ)」があって誠に興味深い。人は「乏しい」ゆえに他者を求めるのは自然の成り行きであろうが、こうした「語誌」を鑑みるだけで、ハッと自らの行動を省みることが少なくない。人は他者(友)に働きかけてこそ、「人」として生きることができるのであろう。

「とむ」「ともし」の音の響き
ことばのDNAを見つめ直す
近現代150年間で失ってしまったことばは、短歌が取り戻すしかないのである。


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