その折々の判断と勇気を
2018-08-01
豪雨から身を守るには地震だっていつ見舞われるかわからぬ
的確で主体的な判断と撤退する勇気
夜にジムに行っての帰り道、いつもの道路を運転していると急に前方の視界を失うほどの降雨となった。ライトはハイビームでフォグランプも点灯、かなり減速して前方の様子を伺いながら徐行運転をした。偶々、中級ほどの規模の川にかかる橋が近づく。その前後の地点の冠水状況はどうだろうか?川そのものは激流になっていないだろうか?心のうちではかなりの恐怖と警戒とを伴いながら、前方5mの路面状態を伺いながら徐に車を進めた。幸い、そのまま自宅まで辿り着くことができたが、その精神状態を振り返るに様々な思いが去来した。自宅に帰ることを予定調和として当たり前で最優先に考えたなら、もしや車ごと命を失うのではという恐怖感が頭を擡げた。僕たちは自然に対して、あまりにも畏敬の念を失い果ててしまった。近現代が生み出した「自動車」という代物は、あくまで万能だと思い込んでしまっている恐怖である。
昨日の小欄に記したように、台風が予想もできない進路で九州南部に停滞している。宮崎は直接な影響を受けているわけではないが、雨雲を甚だ刺激してにわかに前述したような豪雨となる。最近の豪雨災害の傾向として、局地的な「記録的短時間降雨」によるものが多いのは周知の通りだ。局地的ゆえに「警報」の対象ともなりにくく、予報ましてや「避難勧告」を受けても、どこかで「自分だけは大丈夫」という愚かで逆行した判断しかできない市民としての視野が懸念される。近現代という虚飾の兜を纏った僕たちは、いまいちど生身の人間として自然への「畏敬」を考え直すべきだろう。少なくとも江戸時代までの感性では、まだ自然への眼差しが豊かであったように思う。古典からはそのようなことを深く学ぶことができるのだが、反知性主義の世の中ではどこ吹く風である。和歌・短歌を学ぶ僕たちは、少なくともこうした自然への態度を再考する契機を持った者たちとして、矜持をもって目の前の自然に対して向き合いたいものである。
自分自身で雨雲と対話する
いまここにいる「我」そのものが「自然」と見なす
人間を誠に弱く小さな存在として「撤退できる勇気」を持てるのが知性である。
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