120年そして1300年の歌の上でー「心の花」創刊120年記念大会
2018-07-29
「新しさは何か」これまでの120年これからの120年
やまとうた1300年の道の上に生きること
『心の花』明治31年創刊、今年で120年となり通刊1437号となる。会場である如水会館に出向くと「一一一〇年」と見える看板、漢数字が縦に重なる錯覚により(総合司会の黒岩さんも触れていたが)奇しくも『古今集』からの年月を逆算し想起する偶然。我々はやはり1300年以上に及ぶ「やまとうた」の歴史の上に、立っていることを考えさせられた。大会冒頭の座談会は、佐佐木幸綱先生・馬場あき子先生に俵万智さんが司会の座談会「新しさは何か」。寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし・・・」の歌を馬場先生が挙げ、前衛短歌が成し得た「新しさ」を考える座談から口火が切られた。興味深かったのは、馬場先生は下句に見える「祖国はありや」に戦後に忘れていた「国」を発見し驚き、一方で俵さんは上句に描かれる「歌謡曲的な情景」を新しいと捉え、年代によって一首の評価が違うことが顕になった。「新しさ」そのものが相対的なものであり、こうした歴史に楔を打った歌を対象にして世代間対話が促されることそのものが、歌が常に呼吸をしているのを感じさせた。その後の座談でも馬場先生の「さくら花幾春かけて」の歌を幸綱先生が挙げるなど、古典との響き合いの中にこそ常に「新しさ」が生まれてきたことが語られる。それは俵さんが挙げた「なめらかな肌だったっけ」の幸綱先生の歌にも口語と枕詞の交響があるという点で同様な指摘があった。
前衛短歌の塚本邦雄にしても、近現代の歌人で一番古典を読んだ上で、それを否定し破壊していった。「破壊」するとは言っても、それは逆説的に生かされるといった作用のうちにある。とすれば既に『万葉集』にすべて読める「喩性」、また愛誦性などの問題として常に古典との交響的な対話こそが、「新しさ」と読まれて明治以降の近現代短歌史をも創りあげられて来たことになる。これはまさに『心の花』創刊を主宰した佐佐木信綱の姿勢そのものとも言えるのではないだろか。俵さんが指摘した牧水歌によめる「古典性」についても、島内景ニ氏の指摘に呼応して個人的に大変興味深いものがある。その後、若手歌人(佐佐木頼綱・佐佐木定綱・岩内敏行・野口あや子・寺井龍哉の5名)によるシンポジウム「短歌これからの120年」もまさに新鮮な意見が多数述べられるものとなった。特に寺井氏の述べた構文・発想の類型性については、考えさせられるものがあった。俵万智さんの「この味がいいね」の歌の構文的類型歌の指摘、端的に言えば今の若い人の歌は「俵万智的」ですべてが言い切れるという歯切れのよさで語られたが、その類型性の上でもズラしがあるという野口氏の指摘との対話性に意味が見えたような気がする。個人的には古典和歌では特に類題和歌集の存在が示すように、「類想」や「類句」の意識が歌世界のバリエーションを開拓し拡大し歌の力を発展させる作用があるのは明らかだ。120年という時間の実感の中で「新しさ」を考えると、いやが上にも「古典」に回帰することが再確認できた。十分に書きつくせないが、これをもって記念大会の覚書とする。
祝賀会でお会いできた来賓の研究者の先生方
そして他の結社の歌人の方々
今この歴史の上に身が置ける限りなき幸せ。
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