芥川の語りに迫りたいー「語りへの招待」延岡公演
2018-07-16
教科書で読んだ名作を語りで『高瀬舟』『とんかつ』そして『羅生門』
「芥川がそこで語っている域まで高めたい・・・」
MRT放送のラジオ番組パーソナリティー薗田潤子さんらによる「語り」公演を、延岡まで聴きに行った。薗田さんとは「サンデーラジオ大学」に僕が出演(放送日は「海の日」だった)させていただいて以来、僕の公開講座にゲスト講師でお招きしたり、随所で「声」に関することで話題を共有している。宮崎で公演があれば極力お聴きしたいと思っており、今回も延岡まで車を走らせた。特に今回は「教科書で読んだ名作」を、薗田さんの東京でのお仲間である小川もこさん・深野弘子さんを加えて、豪華な語り三本立てであった。鷗外の文体はやはり語りに適しており、落語に近いような「声の文化」に依拠して執筆されたであろうことが、その再現された場面の台詞の生々しさから感じられた。また三浦哲郎の短編文体も、昭和の作家ながら登場人物の描写や台詞の緻密さが語りによって光が照らされる。この「語り」という表現営為は、その特性から作品が「声の文化」要素をどれほど含有しているかどうかを浮き彫りにするように思われる。
「語り」とは「朗読」ではない。作品を本から「読む」のではなく一本丸ごと身体化して落語同様に、一人である時は淡々とナレーションし、ある時は登場人物が降臨するかのように伝えるという高度な表現活動である。今回は芥川の名作、高等学校の全教科書に掲載されている『羅生門』を薗田さんがいかに語るかと実に楽しみであった。公演後の挨拶で薗田さんは観客の僕らに詫びた。それは、全文がまだ身体化されていないことに対するものであった。珍しく本を持ちながらの語りとなったが、それだけにむしろ「語り」の次元を上げていく過程を聴くことができたようで、僕自身の特異な興味を深くそそった。あらためて芥川は凄い作家である、というのが第一印象である。人の呼吸に即した文体、絶妙に語り手が作品舞台の内外を自由往還、そして短歌に迫るような体験的に腑に落ちる比喩、等々その作品性の深淵が薗田さんの「語り」で炙り出される。最後の一文、芥川が推敲の果てに逢着した「下人の行くへは誰も知らない。」の声を聴いた時、しばらくは身体が硬直し動けなくなるような金縛りにも似た感覚をもった。芥川恐るべしである。そして薗田さんの今後の『羅生門』の語りの昇華は、決して見逃せない。あらためて定番化した教科書教材の授業実践に、新たな光を投げる「語り」になるかもしれない。その過程分析などをしたら、今後の教材としての『羅生門』研究に貢献できるような気がした。
猛暑の中でホールの中では違う熱さが
僕の生まれ故郷に住んでいた芥川龍之介の凄さをあらためて
薗田さんと宮崎で「声の文化」復権に向けて今後も活動したいと思う。
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