「教える」の語感を考える
2018-06-18
「説明」ではなく自らの今を語る「教える」のではなくお互いに気づく
世界でここにしかない発見をしたい
最近は「教える」という語彙に、抵抗を覚えるようになった。その一つの理由に、自分の一つの考え方を教え込んでも、学生にとっての学びにはならないと思うゆえである。少なくとも教え「込む」のではなく知識・技術は伝えた上で、学び手が自ら気づいて行動し活用できるようになることが重要なのではないかと思っている。あらためて『日本国語大辞典第二版』をくってみると、「(1)行動や身の処し方などについて注意を与えて導く。いましめる。さとす。(2)知っている事や自分の気持、要求などを他の人に告げ知らせる。(3)知識、技術などを身につけるようにさせる。教授する。(4)おだてたりして、悪い事をするようにしむける。」の四項目が見られる。特に(4)の意味については「語誌」に次のように記されており興味深い。
「本来は使役の辞である「教」字を、「をして〜(セしむ)」とよむ訓法が平安時代後期以降に成立した事に起因し、「〜」の本動詞の意味が特に悪い結果を生じさせたり、悪意に基づく所作であったりした場合に、「悪いことをしむける」の意味に解されるようになったのであろう。」
僕自身が今感じている「教える」に対する抵抗感は、たぶんこの「使役」の趣旨にあるようだ。
「読み聞かせ」という語もそうであるが、読み手が一方的に聞き手に「聞かせる」という趣旨の語感が生じてしまう。以前に俵万智さんともこの点について話したことがあるが、「なんだかお仕着せがましい」という意見で一致した。聞き手側にも主体性があって、その語りに参加していることが含まれるような適切な語彙はないものだろうかと現在も模索中である。誤解のないように記しておくが、上記の『日国』にある(1)(2)(3)の要素を、あくまで〈教室〉で不要だと言っているのではない。「さとす」「告げ知らせる」「身につけるように」と意味が記されているように、受ける側が主体的に「気づき」「行動し」「活用できる」ように「教える」ことが求められているということだ。この考え方の上では、教える側と学び手のすべてが平等でなくてはなるまい。
対面し声で告げることの大切さ
気づいたら自分で行動してみること
「説明」ではなく心を動かすものにすべきなのは短歌も同じ。
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