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「鳥のことば」に思ひて

2018-06-17
「さむきわがことばより鳥のことばもて語りたきかな父への愛は」
『瞑鳥記』〈伊藤一彦・第一歌集(1974)より〉
考えるに難しき新たな父との関係

宮崎の自宅では、早起き鳥の合唱が心地よい。どこからともなく自宅附近の電線を埋めて、美しい声の交響を聞かせてくれる。目覚めというのは本来、この程度の音で穏やかに覚醒してゆくのがよいと云う話を聞いたことがある。確かに階段を踏み外すような夢や、アラームの暴力的な音で飛び起きた際というのは、身体に変な負荷がかかっているようで明らかによくないと思えてしまう。居住環境というのは、その人間の感性や感覚までも作用してしまうので、明らかに穏やかな場所を選ぶべきなのであろう。こう考えると、宮崎の地というものは誠にありがたき場所である。僕自身が東京生活にあまり未練を感じなかったのも、「鳥の声」に象徴される宮崎の自然の豊かさを知ったからである。

「鳥」といえば、伊藤一彦先生の第一歌集『瞑鳥記』を思う。早稲田大学在学中の東京生活から故郷宮崎で教師をするために帰郷され、この地で根を下ろして作られたお若い頃の歌の数々を読むことができる。「おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを」「韻律の森より翔べる鳥あれば血しぶきながらわれは見ている」「空には鳥の脂(あぶら)にじめりにんげんの街よりとおく離れきたれば」などの歌に表出する「鳥」からよめる韻律・意味・イメージは、この宮崎の風土で暮らさなければ得られない境地ではないかと考えさせられる。同時に親族への和みたる愛情の深さを、冒頭に示した歌などから感じ得るのだ。先週まで僕自身も在京の父が宮崎に滞在していたので、あらためてその関係性を考えさせられていた折でもあった。僕自身が自宅周辺の早起き鳥に癒されるように、父へも「鳥のことば」でもって語れる人になりたいと、伊藤先生の短歌は教えてくれるのである。

「もはや痴れし父と赦しつ酔眼を放てば月下のあおき雪嶺」
「虹斬ってみたくはないか老父(おいちち)よ種子蒔きながら一生(ひとよ)終るや」
「憤りしずまるまでを死についておもうは父に教えられたる」
(『瞑鳥記』より)


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