「しらべ」か「ひびき」かー「韻律」か「声調」か
2018-06-08
「韻律」に特化して批評の対象とする「意味を抜く」上で「しらべ・ひびき」の良し悪し
明治維新から150年で失ってしまったもの・・・
要件があってメッセージをした短歌関係の友人と、思い寄らぬ内容がメッセージ上で展開された。彼がラオス楽器の「ケーン」の演奏会に行くと、その重層的な音に魅了されるとともに生活に根付いた面があることを発見。日常生活上の説明会などでも、内容を韻律ある歌詞にして楽器を伴い歌にして伝えることに興味を覚えたと云う。それはラオス人が、「意味」より「しらべ」を好む傾向にあり、「説明」のための「説明」ではなかなか聞いてくれないと云うことのようだ。これはまさに「短歌のしらべ」に通じるものであり、近現代を通じて僕たちが忘れてきてしまったものなのかもしれないと彼は云う。日頃から「音読・朗読」など音声表現の問題を考えている僕としては誠に興味深いエピソードであり、「声」(表現)と「意味」(理解)との関係を考える上で、新たな分野に食指が動くような内容であった。
それならば「韻律(音楽)」を三大要素(他に「意味」「イメージ」)の主とする現代の短歌は、果たして「声(音)」を大切にしているのだろうか?歌会でも司会者なりが短歌を読み上げることはするものの、あくまで「事務的」な域を脱することはない。短歌ごとの句切れの差異や「句割れ・句跨り」などの部分を、表現に応じて適切に読み分けているだろうか?適切に読み分けるには深い解釈が前提になるゆえ、むしろ司会者というより評者が発言の際に短歌そのものの「韻律」を「声」で再現しながら伝え合う必要性もあるはずである。そこで、こうした「しらべ」に特化した歌会ができないものかと話は発展した。さらにやり取りは進んだが、果たして「しらべ」という語でよいのか?と疑問が湧いた。それは佐佐木幸綱先生の歌集『直立せよ一行の詩』の「あとがき」冒頭に、「(自分の短歌は)『しらべ』ではない『ひびき』なのだ。」とあったのを思い出したからである。するとまた先日の国際啄木学会宮崎大会で「韻律」という用語を使用して研究発表をした際に、その定義と先行研究について深い質問を受けたことが思い返された。要するに歌作でも評論でも研究でも、この「しらべ」「ひびき」「韻律」「声調」の分野というのは十分な議論がされておらず、今後ますます失ってしまう要素ではないかと危機感を覚えることに行き着いたのであった。
危機感はそのまま行動となる
友人と新たな試みを実施することになった
Web上のメッセージながら、実に共鳴する「声」が響き渡る結果となった。
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