「匂い立つ言葉」を交わそう
2018-06-07
「君たちの言葉は匂い立つようでなくてはならない」国語科教員を目指す学生たちへ説くこと
『月刊国語教育研究』(2018年6月号)石塚修氏「問題提起」より
懇意にする研究者・筑波大学の石塚修氏が、冒頭のようなことを書いていた。標題は「言語生活に根ざす語彙指導」である。まずは、現代人全般の傾向として「わかりやすく」を合言葉とした「ワンフレーズ」の流行により、「簡単なひと言でコメントをすませてしまおうという傾向」があると指摘する。その上で「話すこと」「書くこと」において「日常と異なる『場』を用意することで、多様な表現をせざるを得なくなる。」とし、「正式さ」「改まった」表現を交わす場としての「国語授業」を提案している。また社会生活をする上では「役儀により言葉を改める」ことが嘗ての常識であり、「公的な立場」を意識した表現に応じることが「語彙が『根ざしている』ことになる」のだとし、こうした言語活動を国語科で育成すべきとする提言となっている。
確かに昨今、学生の「話す」「書く」に接するとその語彙の貧困さとともに、「場」に応じた表現の喪失を察知する機会が多い。教育実習などの「場」になって初めて聊かその意識が芽生えはするが、それでも「ホントですか」「だいじょうぶですか」「ふつうに」などの曖昧な表現で授業進行をする様子が散見される。実習や採用試験など、将来の教師として社会人としての資質が試される「場」のためだけに、付け焼き刃としての「対策」を講じて何とか乗り切ろうとする対処療法的な行動も否めない。たぶん学生たちは中学校・高等学校の頃から「入試対策」という局所対応型の「やり方」を与えられることで、越えるべき難所に対応してきたのであろう。その「難所」が豊かな人生を築くこととは隔たった感性を養っていることは、最近の官僚エリートらの異常行動を見れば一目瞭然である。「匂い立つ」とは単に語彙が豊かであるのみならず、批評性を含めた豊かな生き方を築く要素が含まれるのではないだろうか。
「隠された悪を注意深く拒むこと」(谷川俊太郎「生きる」より)
国語教師を養成する「場」としての責務
短歌には少なくとも「匂い立つ」言葉がたくさん含まれている。
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