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文字を読むのか伝えたいのか

2018-05-31
音声そのものが「目的化」すること
「文字」をただ「声」にしているだけ
「パブロフ化」した大脳学習のこと再び

先日の中古文学会春季大会懇親会で、ある先生からこんなお話があった。昨秋の同学会の懇親会で僕がその先生に話した内容が、論考を書く上で参考になったというのである。それはやはり「文字」と「音声」に関する問題で、「音声化」そのものが「目的化」してしまう現象についてのことのようだ。「文字」ばかりから意味を咀嚼するようになった現代では特に、この「目的化」現象が「音声化」の現場でよく現れるものである。例えば小学校の教室でも、意味内容の把握・理解にはまったくと言ってよいほどに貢献しない「音読」が無自覚に行われることが多い。いわば、ここで「目的化」と記してきたことは、「音声」を媒介とした先の「無目的化」を孕んでいるということである。端的に言うならば、ただただ「声にしている」だけの音読である。

「国語」の授業で「音読」は、ほとんど必須といってよいほどの学習活動である。宮崎県では特に「読み声」と称し、家庭学習課題として保護者とともに実践するものが定着している。だが授業研究や実習研究授業を参観すると、前述した「無目的を孕んだ目的化の音読」に頻繁に出会うことになる。その現象の特徴として、教科書教材を独特なイントネーションで読み上げる「声」の「韻律」がほとんど「記号的」に付き纏った「音読」となっている。これを大脳学習の問題で述べると、与えられた情報に再アクセスしない受動的な脳の働きしかしない状況は、身体を「パブロフ化」してしまうとする立場と関連していると言える。自己を含んだ他者に「伝えたい」という意志があれば、常にその知識情報の内容を反芻し精査する脳の作用が生じる。どうやらここが人間が人間たる所以であると、脳科学の分野では言われているらしい。

「黙読」に漬かりきった身体
「和歌」の仮名書きにそれが「声」である形跡あり
「パブロフ化」した学習は、今も多くの教室で無自覚に展開されている。


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