「中古文学」とは?を問い続けて
2018-05-27
人文科学の厳しい環境
研究の細分化と自閉化
「中古文学」そのものが一つの「解釈」ではないか?
平成30年度中古文学会春季大会が、日本大学文理学部にて開催された。初日はシンポジウムでメイントーマは「これからの中古文学のために」であり、さらに2つの細分化されたミニシンポジムが設定された。一つは「韻文と散文、和と漢の交通」で、二つ目が「時空を越える中古文学ーその普遍性を探るー」である。いずれも閉塞的な状況に置かれた古典文学研究において、巨視的な視座で未来へ向けて発信できる研究の価値を語り、その魅力を再発見することで、少しでも危機感に対する新たな意識を会員が持つ契機となるような内容であった。ジャンルや作品を超えた「学的な対話さえおぼつかない」という状況そのものが、この学会の現状であるとともに、ともすると自壊へと進みかねない、危機的な状況であると認識すべきであろう。「韻文と散文」といった対立軸で述べることそのものが含み込む「分断」は、このシンポジウムのパネリストの構成そのものにも表れているやに思われた。
そもそも「中古文学の普遍性」とは何だろう?シンポジウムの最後の方で鮮烈に提示されたこの問題意識、まずは「ここ」から始めなければならなかったのではないか?僕自身としても、今年度からあらためて「国文学史」や「国文学講義」を担当するようになって、考えていたことでもある。「文学史」という機軸の中の一定の評価そのものが、誠に近現代的な視座からのものであり、その「近現代」そのものを問うことなくして、「文学史」そのものが成り立たないのではないかなどということを考えている最中であった。ちょうど「大学教育入門セミナー」という初年次基礎科目も複数人で担当しているが、そこで学生から出た質問として「定説と自分の考え方をどのようにレポートに示せばよいか?」というものがあった。「定説」とはいえそれもまた人文学では「一解釈」であり、そこに批評的に自己はどのような立場を取り、どのように評価するかを示すべきではないか、といった趣旨の回答を教室では行なった。まさに知的であるということは、こうして「普遍性」などという喧伝に溺れないことではないか。と考えつつ、今日もまた「中古文学会」の研究発表に僕自身は向かうのである。
作歌の上での文語と口語の表現性のこと
いま現在を生きる僕たちにとって和歌や物語は何なのか?
明治・大正・昭和・平成の150年間が包み込んで来たものを解放すべきときなのだろう。
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