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せめて知性は護ろうじゃないか

2018-05-24
「そんなことは言った覚えはない」
「そういう意味で言ったのではない」
「真意が伝わらなかったことについては反省している」

どうやら日本社会は、こんな言い訳をすれば何事も正当化される世の中になってしまったようだ。政治の「最高責任者」と自ら豪語する者の発言、地方自治体の長たる者の発言、伝統と誇りある大学スポーツ組織の発言等々、事実たる言動や供述にいくら矛盾があってもである。語彙や表現は違ったとしても、冒頭のような言い逃れというのは、せいぜい小学生が先生や親に対しての言い訳であると、昔は相場が決まっていたはずだ。子どもの時は、たぶん誰しもがこのような言い逃れをしたことが一度や二度はあるかもしれない。だが、その言い訳の後には激しい自己嫌悪に陥り、事実を捻じ曲げたことに対して自らへの呵責の念が絶えなくなるものだ。それは、自分を「知性をもって整合性のある人間である」と思いたい正当な願望があったからと思う。

だがしかし、冒頭のような言い逃れが横行する社会では、小学生にもこのように言い逃れをすればどんな矛盾でも許されるという見本を示してしまっている。さらには、容疑者たる人間にも不整合でも「覚えていない」という類の言い逃れを許してしまいかねない。これは信頼できる社会を構築して来た我々に、取り返しのつかない損出を与えることになるだろう。教師は、どのように子どもたちに向き合えばいいのか?ましてや警察はどのように容疑者に対応すればいいのだろう?「教養」や「知性」がないのは恥ずかしい、と思う人が世間の大多数を占めていた時代は過去のものなのだろう。その証拠に、知的な言葉の矛盾を微細に読み取ることを旨とする人文学の価値が分からない政治家・行政人が溢れ返る世相である。学歴のみが問題ではないが、せめて僕は自らが向き合っている学生に言い続ける、「教養」「知性」をもって「品性」ある生き方をすべきではないかと。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、
 意地を通せば窮屈だ、兎角に人の世は住みにくい。」
(夏目漱石『草枕』冒頭)


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