短歌をよむ緩急ー啄木三行書きから考える
2018-05-14
「いのちなき砂のかなしさよさらさらと
握れば指のあひだより落つ」(石川啄木『一握の砂』より)
国際啄木学会の研究発表によって、しばらく啄木の歌に向き合って来た。今回考えたひとつの主張として、啄木は詩作や小説の執筆など多彩な文体と格闘した結果、「小さくて手間暇のかからない短歌」として利点を見出した、ということがある。新体詩の影響下に「四四四三三(六とも)」などの韻律を厳格に遵守する詩作には、甚だ窮屈な思いを持っていたのであろう。そこから解放された時、自由奔放な詩作が湧き出しその延長上で短歌が「爆発的に噴出」しているわけである。こうした創作の経緯から考えても、啄木が「三行書き」を採用している必然性が見えてくる。旧派以来の短歌の韻律は限定的だが、明治という新しい時代における文人たちの文体との格闘の結果、新たなる韻律を表現するための有効な方法であったわけである。したがってこの「三行」であることの「(創作)意志」を、我々は十分に反映させて「よむ」必要があるように思われる。
学会の鼎談で伊藤一彦先生が言及した点には、大変興味深いものがあった。「東海の小島の磯の白砂に」など三行書きの長いフレーズは、「早く読まないと息が続かない」ということである。もとより「東海の」の一行は「五七五」であり、通常に短歌を無造作に「上の句・下の句」にだけ分けて読んでしまえば、この「長さ」を読むことに慣れている向きも多いだろう。だが実はその読み方というのは、「早く」読んでいたということにもなる。牧水の歌は「五七調」で作られている歌が多く、「けふもまた心の鉦を」や「白鳥は哀しからずや」という「長さ」で一旦息継ぎで「休止」することになる。早口ではなく「ゆっくり穏やかに」読めるのが、『万葉集』の長歌に由来する「五七調」ということになるだろう。冒頭の啄木歌に戻るならば、むしろ「さらさらと」という二行目は、実に「ゆっくり」読むことを啄木が希求しているとも言えそうだ。桑田佳祐んさんが「声に出して歌いたい日本文学」というソロ楽曲の中で、啄木の歌を何首か取り上げているが、桑田さん独特の「早口」が啄木の意志を反映しているようでもあり、ここのところ車の中で聞いていて、何度か涙腺が緩む”事態”に見舞われている。
「砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日」(石川啄木『一握の砂』より)
- 関連記事
-
- 悪しき現実への反撃 (2018/08/07)
- 「羨し(ともし)」は「乏し」ゆえにこそ (2018/08/03)
- 120年そして1300年の歌の上でー「心の花」創刊120年記念大会 (2018/07/29)
- 「受けたもの」を小さく「返す詩形」 (2018/07/21)
- 「サラダ記念日」といふ感性 (2018/07/07)
- 母音の響き 「意味」よりも「音楽」 (2018/07/06)
- 「しらべ」か「ひびき」かー「韻律」か「声調」か (2018/06/08)
- 短歌をよむ緩急ー啄木三行書きから考える (2018/05/14)
- 俺は俺だと立ち上がる (2018/03/13)
- 眼にみえぬ鬼神いづこに (2018/03/10)
- 人生の深みを知る歌集「時禱集」ー第22回若山牧水賞授賞式 (2018/02/08)
- 第5回マスターズ短歌甲子園開催 (2017/12/18)
- どうしやうどこにもなくて (2017/12/15)
- ゆっくりに制動をかけ 力動を生むー復権せよ五七調 (2017/12/11)
- 短歌・歌会に支えられてー第318回心の花宮崎歌会 (2017/12/06)
スポンサーサイト
tag :