学生に伝えたい「夏は来ぬ」
2018-05-10
「卯の花の におふ垣根に杜鵑草 はやも来鳴きぬ
忍音もらす 夏は来ぬ」(作詞:佐々木信綱・作曲:小川作之助)
GW中、先週の5日が暦の上で「立夏」であった。暑いの寒いのと天気予報は喧しいが、季節感の認識は世間においてどれほどあるのかと思ってしまう。せめて教師志望の学生たちには、このような感覚を身につけて欲しいと思い、昨日の講義の際には始まる前から、冒頭に掲げた「夏は来ぬ」をYoutube画像から検索して教室に流すことを試みた。「卯の花」「杜鵑草(ほととぎす)」をはじめとして、「さみだれ」「玉苗」「早苗」「橘」「蛍」「楝(おうち)」「水鶏(くいな)」などがその歌詞に含まれていて、曲の穏やかさと相まって心に沁みる唱歌の一つである。「におふ(照り映えて美しい)」や「忍音もらす(その年に初めて聞かれる鳴き声)」などの古歌・古語に由来する語はその音律もよろしく、文語の響きのよさを体感するには誠によい教材である。
作詞の佐々木信綱は、周知のように僕も所属する「心の花」の創始者であり、結社は今年で120年を迎える。全国大会など折あるごとに、この「夏は来ぬ」を参加者で歌う機会もあり、個人的にも馴染みの深い曲だ。折しも週末にある研究発表を控えて、明治期の「文語」から「口語」への「歌人による混沌とした言語との格闘」のことなどを調べているため、また別な意味でこの楽曲が身に沁みて来るのである。同様に「春が来た」の唱歌もあるが、こちらは本学キャンパスの土地柄を理解するのに重宝する歌詞である。「山に来た 里に来た 野にも来た」というのは、「自然にも 人にも そして相互の交流領域にも」という理念的解釈ができ、この歌詞が一人語りではなく、複数の視点による発見と疑問の対話であることが理解できる。「山」に加えて「海」も近い本学キャンパスは、まさに「自然」と「人間」の交流場所である。講義では教室を3パートに分けて群読することでこの解釈が体感し、その方法を「言語活動」として小学校の授業に応用する可能性を説いた。
文語の音律の躍動感
口語はそれを排除して来た歴史でもある
明治維新150年、今こそ考えるべき自らの言語感覚。
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