待てば文は来たらず
2018-04-25
携帯ゆえにすぐに来るだろうと書簡の文は「既読」や否や
不思議と待つ意識があると文は来たらず
使用してみると麻痺してわからなくなってしまうが、SNSの出現は生活に大きな変革をもたらした。もし自分の学生時代にスマホがあったら、恋愛や交友関係をいかに潤滑にすることができていただろう、などと仕方のない妄想などをすることもある。彼女が実家生であれば「家電」にかけて、母親かはてまた父親などの場合は不運であるのだが、取次を願ってやっと電話での通話ができる。もちろん電話もリビングとか廊下(確かサザエさんの磯野家は廊下)とか、家族全員に発話が聞こえる場所にあるゆえ、踏み込んだ話にはなりにくい。まさにスマホのライン通話なら自分の部屋でも公園でも、いつでも自由な通話が楽しめるだろう。もちろん、ラインやメールの文面によって自らの文才を活かし、巧みなお誘いをかけることも可能であったはずだ。
「既読」か?否か?を意識する癖がついたのか、書簡を投函してから数日、先方様が読んだのかどうかと以前よりも気になるようになった。SNSでは多くのメッセージで、「既読」かどうかを必然的に確かめてしまう。すると次の精神的作用として、返信を期待し始める。期待の高い返信ほど、なかなか来ないような気になってしまう。「待つ」ことの耐性が現代はなくなったというのは、哲学者・鷲田清一の評論にあるが、手元に送受信双方の「ポスト」があるゆえに、すぐに投函しすぐに空の郵便受けを覗くような愚行を、わかっていても続けてしまうのだ。「郵便」であっても、かなり迅速な物流であるはずなのだが、近代以前の文のやりとりであったならどれほどの意識であっただろうか。もしもSNSがあったなら、かの在原業平などは『伊勢物語』で語られるような恋の様相が変わってしまうのか、などと他愛のないことに思いを致す。
「待つ」ことの重要性
忘れた頃に来たる文こそ嬉しきものなり
原点に帰り素朴に生きたいものである。
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