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在京の街に身を拓く文人

2018-03-19
啄木と牧水
ともに地方出身にて文学への志を
在京の街は彼らに何を与えたのか

ある研究学会の地方理事として、東京での理事会に出席した。席上、全国の様々な先生方と情報交換をしたが、なかでも岩手の先生とは「国際啄木学会」についてお話する機会を得た。岩手と宮崎、それはまさに啄木と牧水の出身地である。今年は5月に宮崎で、牧水没後90年ということもあり牧水研究会との共催で「国際啄木学会」が開催される。その場で両歌人の「韻律と明治の時代性」に関する研究発表を僕自身がすることになっている。岩手の先生曰く「啄木に関しては伝記研究は進んでいるが、その歌の韻律などの評価に関する分野が手薄である。」というご指摘をいただいた。僕自身が、両歌人の歌に正面から取り組みたいという思いが通じたようで、大変にありがたいお言葉であった。

東京は下町に生まれ育った僕は、その風土が大好きだ。牧水の妻となった太田喜志子が身を寄せていたのが太田水穂邸で、その場所のすぐ近くが僕の実家である。さらに言えば、僕が生を受けた産院こそが太田邸のあたりである。牧水とのご縁は、僕の中に生前から起動していたことを特筆しておきたい。啄木の下宿していた音羽や小石川、牧水の家があった巣鴨と大塚の間など、この両者の住んでいた街のことは、僕自身も幼少の頃から馴染みのあるところである。その街の持つ独特な文学的雰囲気を、時代は変われど僕も受け継いだのかもしれない。そして今まさに、地方在住者として、上京して牧水と僕の母校である早稲田や“あの”街並みから何かを受け取っている。昭和の一時代を“あの”街で育った一人として、明治における啄木と牧水が歌に対して抱いていた野望を一つ一つ辿って、自分の言葉で語ってみたいと思っている。5月の発表の基盤は、こんな点にもあるのだ。

住居の場所が文人に与える力とはいかに?
啄木も牧水も困難な生活にまみれながら新しい短歌を拓いた
大仰に言えば、やまとうた1300年の歴史の上に啄木と牧水を位置づけたいのである。


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