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方位厄のちに知らされ鬼の引く手に

2018-03-11
方位厄の年回り
平安朝に倣ってさながら「方違え」でも
「眼にみえぬ鬼神」はここにもあり・・・

妹に「方位厄」の年回りであると教わった。1年前に妹自身が引越しをする際に方位を入念に調べ、今年は兄がそれであると知り、正月にはお札ももらってくれていたらしい。具体的な「吉」や「大凶」の方位を妹のメールで知って、ある意味で驚愕な思いを抱かざるを得なかった。早速に「お札」は東京の実家から、宮崎に持ってくるべきだと進言された。先日拝見した公演ーNAOTAプロデュース「見えても 見えなくても」で喚起された意識であるが、やはりいつも「誰かに見られている」という感覚は大切なのだと思い直している。人は所詮は弱いもので、独善的で傲慢な考え方になると、自ずと動作が怠慢によって意に反した動きをしてしまうことがある。その「緩み」に楔を打つのが、「方位厄」といった「思想」なのかもしれない。

昨日の自身の短歌評に記したが、まさに「眼にみえぬ鬼神」とはこのことである。「鬼神」とは現代語の「神霊」の意味に近く、民俗学的に形象化さえた角の生えた節分や雷さまの「鬼」にあらず。『古今集」仮名序に紀貫之がこれを記したのが西暦905年前後のことであるから、平安貴族にこうした意識は一般的であったのだろう。ことばを和歌として詠めば、「眼にみえぬ鬼神」も「あはれ(しみじみとした感興を抱くこと)」に思うと云うのである。宮崎では神楽も盛んであるが、和歌とは元来が「神霊」に捧げるという「言霊信仰」に根付いたものであったことがわかる。ゆえに平安朝では『源氏物語』などに頻出するように、日によって凶の方角を避ける「方違え」なども行われていたのである。翻って現代に置き換えて考えてみても、短歌は「自分の眼にみえぬ心」との交信であるようにも思う。自分の心は自分が一番わかるわけではないゆえ、ことばにして「鬼神」に届くように捧げるのである。そうすることで初めて、「自分」の心の有り様がわかるのである。

吉凶の在りかはいづこに
自らの一挙手一投足を戒める
ただただ自らの心に向き合うということでもある。


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