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眼にみえぬ鬼神いづこに

2018-03-10
『心の花』2018年3月号
佐佐木幸綱・選「今月の15首」
「眼にみえぬ鬼神いづこに隠れをる風なき夜半の庭の玉砂利」

月初めになると必ず、大学のメールボックスを頻繁に見るようになる。何度となく何も届いていない空のボックスを見ることになるが、それでもある封筒が届くまでは執拗に見ることを止めることはできない。そして封筒が届くと、真っ先に研究室に持ち帰り開封する。そして誌上を無心に繰ってまずは自らの作品のどの歌が何首採られたかを確かめて、数ヶ月前の作歌時点を振り返りあれこれと反省する。その際に浮かぶ歌への考え方が、とても大切なのではないかと思っている。こうした毎月の歌を学ぶ楽しみに加えて、今月はさらに大きな喜びが加わった。『心の花』巻頭に掲載される「今月の15首 佐佐木幸綱・選」に冒頭に示した自らの歌が選ばれていたからである。

実を言うと、先月の牧水賞授賞式祝賀会の席上、幸綱先生と談笑した時に「君の歌について何か書いたな〜」などとおっしっていた。「たぶん」この「15首評」ではないかと見当はついたが、それ以上先生に確かめることはしなかった。この日、その「たぶん」が「やはり」に変わった。幸綱先生が評でお書きくださったように、初句・二句は『古今集』仮名序にある「和歌効用論」の一節である。評にも引用いただいたが、曰く「力をもいれずして天地を動かし、眼にみえぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心を慰むるは歌なり」とある。学部の卒論から『古今集』を対象として研究して来ただけに、この引用ある歌を幸綱先生に選んでいただけたことは、誠に光栄である。そしてこの「効用論」の中でも、「鬼神」については「あはれ」と言う語彙と呼応していることもあって、もっと掘り下げて考えるべきだと思っていた。この自作歌は、まさに自宅の庭で「鬼神」を探した歌に相違ない。「庭の玉砂利」も風があると音を立てることもあるが、「風なき夜半」の静穏な中でこそ探せそうな気持ちになる。そしてまた「玉砂利」は「魂」を想起させる語彙として、結句に体言止めとしてあることも付言しておきたい。

もちろん「鬼神」は現代でいう「鬼」ではない
漢語と和語が調和を保って配されている貫之の名文
その真意を現代短歌にと問う役割をあらためて感じながら。


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