「人は正しさに説得されない」ー底まで行った人に
2018-02-26
石牟礼道子さんの追悼番組にて高橋源一郎さんの弁から
短歌でも学校でも生きる上でも・・・
石牟礼道子さんの訃報に様々な思いを抱いていたが、小欄でなかなか取り上げることができないでいた。ちょうど宮崎に赴任する前の夏のこと、福岡空港から三池・長崎・天草・水俣・吉野ヶ里・大宰府といったツアーを懇意にする大学教授らと周遊した。なかでも水俣では「水俣病センター相思社」に宿泊し、市内の各所を訪問しまさに現場を体験した思いであった。それ以前に同行した教授の企画で、石牟礼道子さんの『苦海浄土』の朗読などを聞く機会もあり、作品として自分なりに受け止めてもいた。その文体で描かれた世界観とともに、水俣での現実を見聞するフィールドワークが巧妙に重なり、ある種数奇な文学体験をした経験となった。この時の九州ツアーによって、僕自身は「九州の神」と相思相愛になったようにも思っている。
休日業務の出勤前、TVでは石牟礼道子さんの追悼番組を放映していた。彼女の作品を日本から唯一「世界文学」に選定した池澤夏樹さんや、高橋源一郎さんがコメントを寄せていた。その中で高橋さんが次のような趣旨のことを語った。「人は正しさに説得されない。底まで行った人に説得される。」と云う、実に的を射た文学評である。これは短歌を創っていてもまったく同じことに気づかされる。詳細に意味を詰め込みすぎて「(正しく)説明」した短歌は、まったく説得力がない。なかなか凡人は「底まで行く」ことはできないが、そこに文学の機微があろう。また学校の国語の授業で扱う「説明文」は、正直言ってつまらない。「論理的思考」などという欺瞞で覆い隠しその学習内容が増量される傾向にあるが、それで学習者は決して「論理的」にはなれない。また石牟礼さんの文学からは「音」によって説得されるという音楽家や翻訳家の弁も、番組では紹介されていた。文体のもつ「音」、これまた短歌と共通する要素だ。人の中に「落ちる」ためには「意味」よりも「音」の要素が大切なのである。
「正しさ」だけを振り翳す学校
「音読」も「作文」も「読解」も「正しく」なければならない
ゆえに「国語」には説得されないということを、石牟礼文学は教えてくれるのである。
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