五輪で常に抱く巷間・メディアへの違和感
2018-02-24
メダル「ラッシュ」「量産」「獲得数」「圧巻」「一つになる」「身体を張る」
純粋にその競技の機微を楽しんでいてはいけないかのような・・・
冬季五輪も大詰めを迎えているが、諸々の忙しさに任せて取り立ててTV観戦することもなく、ニュース映像でダイジェスト的に見る程度である。ちょうど夏季北京五輪のときだったか、期間中に研究のため米国に滞在していたが、巷間もTV報道も大々的には五輪を扱っておらず、MLBなどの結果が優先されるあり方に自らの「五輪観」が揺さぶられた覚えがある。X’masのLosに滞在した折は、あまりの街の静かさにやはり同じような感覚に至ったこともあった。多くの人々は自宅で家族とともに閑かに聖夜を過ごすのである。それにひき比べ我が国では、何かと「国民的」という語彙を好み、個人個人の趣向を抜きにスポーツイベントなどで舞い上がる。また2月14日・3月14日・10月31日・12月24日に連なる「総動員」的な動きというのには、以前からかなりな違和感を覚えていた。もちろん「一個人」として、参入しなければよいだけなのであるが。その違和感が、こうした五輪報道を観ている際に必ず頭を擡げてくるのである。冒頭に記したような様々なアナウンス語彙そのものにも、ついつい違和感ばかりを覚えてしまう。
羽生結弦さんの演技をニュース映像で観た際に、牧水の「白鳥は・・・」の歌と重なった。(コスチュームも「白」に「青」が一部施されていた)先日の対談でも一部語ったことだが、怪我を克服してしなやかにのびやかに舞う姿は、まさに「染まずただよふ」であった。怪我後にあまり公に姿を現さなかったことは、前述したメディアの喧騒から逃れるためかもしれない。その姿勢も「染まずただよふ」だと思うのだ。選手とて自分なりに納得した競技をするためには、世間から「あくがれる」必要があることを物語っているように思う。メディアの理性なき喧伝で前評判による重圧から、本来の競技ができなかった選手も多いように思われる。「メダル」などという「結果」よりも、その競技がいかに美しいか、いかに相反する身体機能を発揮しているか、諸条件に適合していかに自分なりに競技に臨んでいるか、そんな機微を観戦者として自分の経験を立ち上げて楽しみたいと思っている。カーリングなどを観ると、その神経戦の微妙さが論文や評論における論の攻め方・守り方と類似した感覚になったりして、個人的に大変興味が湧いてくる。ハーフタイムに「もぐもぐタイム」などとメディアが喧伝する果物を食する選手たちを観て、脳をかなり消耗しているのではと仲間のような意識になってきたりもする。論文など作成時に味わう果物やチョコは脳への栄養補給として格別である。こんな自分を立ち上げた観戦があってもいいはずだ。
「叫ぶ」ことなく何がどのように「凄い」かを語れ
他国選手の健闘ぶりを讃える姿勢よあれ
むしろ「昭和」の方が長けていた世界観をどうしたらよいのだろうか?
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