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授業の演じ手は誰であるか?

2018-02-23
「教師が創る」授業
舞台を観せ学習者は鑑賞者なのか
学習者そのものが演じ手となる授業を考える・・・

凡そこの30年間において、「授業」「講義」に関する概念は大きく変化した。僕自身が初任者教員であった頃も、ともかく50分間(中高)の「授業」を舞台で演じ手として教師が主役で展開することを疑いもしなかった。それだけに様々な演出・舞台装置(仕掛け)・演じ分けなども考慮して、「授業創り」に勤しんでいた記憶がある。たぶん同僚の他教科の授業を覗いてもそれは同様で、「教師主導の一斉教授法」がほとんどであった。こうした意味では座学ではない芸術・体育や家庭においては実技中心の授業であり、生徒たちにとっても息抜きになっていたようにも思う。座学の教員からすると体育などは、「ゲーム(ある競技の)」をやらせるばかりで教師が演じることも少なく、準備が不要で楽な印象を受けたものだ。だが実技科目であっても、意識が高い教員であれば、むしろ様々に演出を施して学習者主体の授業を構成していたようにも思う。

喩えて述べるならば、さながらTVを観るかのような感覚で「授業」が展開される。ほとんど教員が喋っていて、学習者は「静かに聞く」ことが義務付けられている。中学校以上であれば「専科生」であるゆえ、同学年で複数学級の科目を担当していれば同じ授業を複数回実践するわけで、それを「再放送」と呼んでいる安易な教員も同僚にいた。だが僕自身は「同じ授業」であっても学級によって違ってしまうと思っていたので、その教員を「安易」と考えていたのであろう。板書の内容なども学習者の発言によって変化するので学級ごとに違うこともあり、「再放送」に慣らされた学習者からは学級ごとの板書を統一して欲しいと抗議を受けたこともある。そうでないと学習者は試験で不安であったのだろう。だがしかし、それで左右される試験問題を所詮僕は作成していなかった。古典の現代語訳や英文の日本語訳などを、「授業(で教えた)通り」に寸分も違わず書かないと「正解」にしない教員の存在などを担任学級の生徒を通じて知り、「再放送」を要求する生徒も無理はないと悟ったこともあった。だがその頃から思っていた僕の意識が、間違っていなかったことがようやく最近、一般的な通念になったということだろう。

演じ手は学習者である
教員は演出を施し気付きを支援する
今尚「一人芝居」を「再放送」している教員もいないわけではないのだが・・・


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