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怒りは己を貶めるー「癇癪考」

2018-02-18
どこかに潜む「癇癪の虫」
怒りや憎悪からは何も生まれない
怒れば顔は歪み、和めば顔は微笑み幸せを呼ぶ

漱石が「癇癪もち」であったのは有名な話であるが、それでもなお近代的自我の問題と格闘しながら、近代的小説を切り拓く道を先導した客観的な文体・筆致を確立したのはなぜだろうかなどとも考える。「癇癪持ち」とは辞書によれば、「ちょっとしたことでも激怒しやすい性質。怒りやすい性質。また、その発作。現代では多く『癇癪を起こす」という形で用いられる。」(『日本国語大辞典第二版』)とある。思うに漱石などは、外に向かって「怒り」を差し向けることで、自己矛盾の渦中に自らを陥れ、その喩えようのない自己嫌悪感を元に客観的な文章を書く原動力を醸成していたのかもしれないなどと勝手な予想もする。もしこの仮説がある程度妥当であるなら、「癇癪」」を好転させる”使い方”として価値のあることなのかもしれないなどとも考えた。

世間は「怒り」が大きく渦巻く「クレーム社会」となってしまった。些細なことにも腹を立て、企業にも学校にも病院にも「クレーム」が容赦なくぶつけられる。近現代的「自我」はその内実がかなり変容し、「怒り」を好転させることもできず「負の連鎖」しか導かない暗澹たる社会に向かってしまっているようで、情けない思いを抱くことを禁じ得ない。考えてみれば、一流アーチストやスポーツ選手は、「怒る」ことが自分にとって損であることを知っているように思う。言い訳なしの「一流」の境地では、「怒り」を顕にせず好転させる吸収消化活動が実に上手く作用しているのではないだろうか。たぶん彼らは「自己」への「怒り」を人一倍持っており、他者への「怒り」は目を瞑る寛大さがあるのではないだろうか。などと考えて、自らも終始「怒る」のはやめようなどと考える日々であった。

「馬鹿って言ったら自分が馬鹿」
小学校時代に流行った名言が思い返される
なごみまろびひろきそらとうみのごとくに。


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