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翌月の歌会までを生きるということー第320回心の花宮崎歌会

2018-02-11
詠草に並ぶ挽歌と
黙祷を捧げて偲ぶ
お世話になった思いを胸に

先月の宮崎歌会新年会から1ヶ月もの間、日々をどのように生き歌を詠み命を繋いで来たであろうか。以前から毎月の自己の観測点として歌会のありがたさを感じてはいたが、翌月にまた普通にみなさんと会えることの意義を、この日は心の底から噛み締めた歌会となった。先月、心の花宮崎歌会で事務局長を務めていた方が急逝された。12月の歌会にはお見えになり、新年会にはいらしておらず、その直後の急な訃報に僕も通夜に駆けつけずにはいられなかった。遺影に面してしか感謝のことばが述べられない現実に接し、もっともっと日常からありがとうございますを繰り返し伝えておくべきだったと悔やまれた。感謝を伝えたいと思ったら、人間その場その時しかないのだとあらためて痛感している。まさに「今」しか、人は生きられないのである。伝えること、ことばにすること、そして歌にすることそのものが「生きる」ということである。

今月の詠草には、多くの挽歌が並んだ。通夜に参列し「思い」を持っていながら、なかなか歌にできなかった己を恥じた。あらためて「抒情」とは何であるかと、昨夜の歌会から今朝に至り考え続けている。遭遇するあらゆる事実を受け止める心の襞を、繊細に柔和に偏りなく研ぎ澄ますにはどうしたらよいか?もとより心のあり様が、理屈と説明的なのではないか?あるがままをことばにするのが歌の原点であるとすれば、あまりに技巧的な小手先の発想に委ね偏っていないか?そしてまた鎮魂はことばによって成されるという言霊の歴史を「研究」として知っていたものの、むしろ自らは忌み避けてはいなかったか?人麻呂・業平・貫之・定家・西行・牧水・啄木に至るまで、「抒情」とは「自らの生」に正面から向き合うことであろう。さらに「生」と真摯に向き合うには、必然たる「死」を受け止めない限りできる所業ではないのだ。

得票の多かった歌に詠まれた「波」
人の命はもとより「波動」から
あらためて謹んで故人のご冥福をお祈りしたい。


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