楽しく力のつく授業にするためには
2018-02-05
授業が楽しいか?=主体的力のつく授業であるか?=指導力
指導者自身の力を問いたい・・・
教職大学院課題研究発表会が開催された。僕は学部所属であるが、数科目に及び兼任担当科目があり、大学院実習で中学校該当者がいると担当になるという関わり方をしている。教職大学院に関わった折に常に考えるのは、研究者教員としていかに関わるかということだ。当該大学院には実務家教員として、県教育委員会から出向でいらしている先生方も配属されている。現場経験に根ざしたより実践的な指導のあり方を、実務家の先生方は指導の旨とされている。ならば研究者教員としては、より客観的・分析的に授業を始めとする学校での活動を捉えて、院生たちに指導する責務があろう。その院生も半数は県内の教職員の方々で、現場での課題を解決しよりよい指導力をつけて1年後に再び現場に帰るということになる。
「楽しい授業(教科)」などと簡単に口にする場合も多いが、果たして「楽しい」とはいかに培われるものなのだろうか?例えば、「落語」は「楽しく笑える」ものであるが、同じ噺を誰が喋っても笑える訳ではない。落語家はその日の一期一会の客に対しても、マクラで笑いのツボを捉えてから噺を決めたり、その場にふさわしいネタを振り込む。それはひとえに、落語家自身の基礎的な力量が高くなければできるものではない。そして「力量」とは決して「話す技術」のみにあらず、落語の演目や背景に対する奥深い造詣があってこその「力量」であろう。話題を「授業」に戻そう。「授業」では、学習者に「力をつけさせる」のは自明のことである。だが果たして「授業技術」の範疇、いわゆる「フレーム」を整えるだけで「力のつく授業」になるのだろうか?学習者に「力をつける」と言うならば、前提として指導者に「力」が備わっていなければなるまい。どんなに技術が高くとも、この2月のキャンプからシーズンを乗り切る基礎体力がなければ、プロ野球選手も大成しないとの同様であるように思われる。
教科の基礎体力が授業を楽しくする
これぞ研究者教員が関わる内容ではないか
指導者本人が文学たる教材の豊かな読者でなくてはなるまい。
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