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「音読・朗読」と「理解」との関係に対する誤解

2018-02-03
理解していないと「音声」にならないか?
「音声」にしながら「理解」が進むことも
身につける力と目的とを見失わないように・・・

本学附属小学校にて、公開研究会が開催された。国語科でも公開授業が2コマ、そして分科会として研究協議が行われた。公開授業では4年生では戯曲教材、5年生では物語教材の授業が展開された。いずれも「音読劇」や「朗読」を言語活動の主軸に据えた授業であり、個人的にも大変興味深かった。「音読劇」といった時に「劇」の部分の要素は何か?(「音読」と「音読劇」では何が違うのか?)という疑問は基本的なようで実に大きいように思われた。「劇」ならば「声」のみならず身体表現全般を含んで、学習者が表現する必要がある。この授業では「あっはっは」という笑い声の発し方が、どう変化してそれが登場人物の心情と結びついているかといったテーマで展開したゆえ、なおさら「表情」が大切である。もとより教材が戯曲、「演じる」要素をもっと学習活動に盛り込むべきであろう。

小学校では概ね「音読」という言い方が主となるが、高学年になると「朗読」という言い方が為されるようになる。それではその違いはどこにあるのだろうか?なかなか現場ではこの線引きが難しい。この日の5年生の授業では「自分の考え方を載せて読む」ことが「朗読」であるという考え方で、物語場面の登場人物の気持ちに対する考え方からして「どのように」読んだらよいかを工夫するといった展開であった。だが、なかなかこの「どのように」を他者にわかるような「表現」にすることは難しい。その「工夫」の内実、いかにその場面を読み取ったかという趣旨も示しておくべきではないかと思う次第であった。協議の中で、「十分な理解をしていなくとも(その理解が論理的に言葉にならなくとも)音読や朗読が上手くできる児童がいる」という見方が授業者から示された。まさしくそこである、多くの指導者が「完全理解」がなければ「朗読」はできないと思い込んでいる。これは高校古典学習で、「文法体系」が理解されていないと「古文が読めない」と指導者が思い込んでいるのに似ている。「理解」は「表現」をすることで、ようやく読む者の腑に落ちて来るのではあるまいか。

「言語活動」の捉え方
実生活で生きて役立つ「ことばの力」とは?
物語・戯曲の虚構の場面に、学習者を「現実に」立たせることである。


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