どうしやうどこにもなくて
2017-12-15
「抱きたいと思へる女性がどうしやうどこにもなくて 裕子さん おい」(永田和宏さん・角川『短歌」12月号より)
独り言ちすなわち天との交信
「歌」とは「訴え」を語源とする説があるが、誠に現代にもそれを深く感じさせる永田和宏さんの最新作に惹きつけられた。永田さんの妻・(河野)裕子さんは歌人としても著名であるが、癌を患い2010年に天へと旅立った。その闘病の境涯を裕子さんも多くの歌に詠み共感を得たが、和宏さんの夫としての苦悩を表現する作品にもいつも心を打たれるものがある。短歌が結びつけた縁としてこのご夫婦の「愛」はいまも「歌」となって、我々の現前にリアルに”生きて”いるように思われる。ことばの力とは、こうして悲痛な現実を再現し他者のこころに響き、避けがたき境涯たる過去を未来へと引き継ぐ効力を秘めている。「生きることすなわち歌うこと」「歌うことすなわち愛すること」「愛することすなわち生きること」和宏さん・裕子さんの歌からは、いつもそんなことを深く考えさせられる。
僕の研究での専門分野である平安朝初の勅撰集(天皇の命によって国家事業として編纂される歌集)『古今和歌集』仮名序冒頭には、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」と歌の抒情性が高らかに宣言されている。この日本初ともいえる歌論の主張は、現代でも生きており「短歌」の根本的なあり方を考える際によく引用される。仮名序はさらに”歌の効用”として「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)の仲をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。」と記されている。この中の「鬼神」とは現代語とは趣旨が違い「霊魂を神として祀ったもの」といった意味である。「霊魂感」というのはもちろん平安朝と近代以降の現代では大きく変化をしたが、この仮名序を読むとあらためて「霊魂」の存在そのものが「ことば」なのではないかと僕なりの解釈をしてみたりもする。避けようのない代え難い過去も、「ことば」によってリアルに再現できて、この世に生き続けさせることができるのである。
物体は破壊されれば瓦礫となる、人間も寿命を全うすれば骨となる
ただ「ことば」だけは、いつまでも朽ちることなくこの世に存在し続ける
そんな崇高さをもって短歌を詠みたいものである。
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