読みは反転するゆえをかし
2017-12-14
「正解」ではなく「読みの交流」様々な捉え方の中で自らの傾向を知る
ある表現は反転すればまた自らが炙り出される
1年生の教科専門科目「国語」は、初等教員免許取得の科目であり多くの受講生が履修している。他教科は2年次の配当であるが、この「国語」のみ1年次に配当されている。それはやはり「国語」という教科が、あらゆる教科の言語活動による学習の基盤になっているゆえであろう。約100名近くの受講者を半分に分け、後半のクラスも2回目の講義となった。この日は各班ごとに牧水の「けふもまた心の鉦を・・・」の歌を「音読」してもらったが、その頽廃的な発声が現状の「国語」という教科の高校までの教育のあり方を象徴しているように思われた。特に高校ではあまり目的も示されずに、ただただ初読の際などに「音読」を施すので、その意義も不明確のまま声にならない声のような、不毛な時間が作り出される。「表現」とはかけ離れた「読み」のどん底を”聞く”ような思いである。
さて「正解はない」という思考で批評的に物事を捉えることが、まさに大学でアカデミックに学ぶ上で身につける力ではないかと思う。この日も「白鳥は哀しからずや・・・」の歌に関して、「白鳥は何羽?何処にいるのか?」という問いを班内で話し合う読みの交流を行った。個々に様々な捉え方が許されるが、それを擦り合わせて班の意見として発表する過程に、重要な思考過程があると考えたい。各班からは「哀しからずや」の表現から読み取る「孤独」なイメージから、「白鳥は一羽」という見解が多く出される。そうかと思えば「染まずただよふ」から、「力強さ」を読み取る班もあって「ただよふ」が単に流されているわけではないというイメージも提供された。教育現場では「短所は長所になる」という視点が、とても大切であると現職時代を顧みて痛感する。「短所」を反転して解釈すれば、必ずそれは「長所」と捉えることができる。”そこ”で本人を激励することが肝要だ。だが「長所は短所にもなる」のも確かである。表現は360度の分裂展開が可能であろうから、心を種に表現した短歌には必ず反転した意味が読み取れる。せめてそんな思考で大学での学びを進めて欲しいと願う。
「音読」と同様に荒んだ「読み」や「表現」も
学校での「国語」は何を目指しているのだろう?
やはり教育とは社会を考えることでもある。
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