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現代語訳に頼らないでこそ

2017-11-16
古文・漢文の現代語訳
高校古典授業の訳中心主義
わかったような気になるだけで読めていないのでは・・・

高大連携などが世間では叫ばれているが、大学入試がその間に置かれていることにより、むしろ分断されている感を抱かざるを得ない状況に遭遇することも多い。センター試験をはじめとして客観式試験が中心であるせいで、どうしても高校生は「正解主義」に陥った思考になりがちである。もちろん「最も適切なものを選びなさい」と問われるゆえ、「思考の傾向」を客観的に捉えるという意味では有効と言えるのであるが、その「最も」は「一つ」だけに微妙な差異を認めない薄情さが伴い、「正解」という「規範」だけを崇める思考に陥りがちなのは否めない。それが古典の場合は顕著で、特に「現代語訳」を求めても「唯一無二」の規範訳を授業で提示し、それを定期試験の「正解」としている「教室」を数多く見てきた経験もある。だがしかし、提示される現代語訳など、その教師の解釈か、あるいは指導書などの解釈に依存した偏りのあるものだと知るべきであろう。

古文であれ漢文であれ、そしてまた明治期の文語文であっても、その原文と向き合って意味を探るところにこそ、文学を読む魅力があるのではないだろうか。現代語訳することを求めたり、あるいは、訳を示して教え込む方法は、もとより「読む楽しさ」を失う受動的な学習に陥りがちである。大学1年生配当科目の「国語」では、こうした「読む楽しさ」を協働活動の中から見出す講義内容を心がけている。昨日は「短歌教材で育む思考力・想像力・表現力」と題して、主に牧水の歌について、自分なりの「読み」を個人思考した後に班内対話をして擦り合わせて一つの見解にまとめて、それを全体に発表するという方法で進行した。「あくがれ」の意味を短歌全体の文脈から考えることや、「白鳥」は「何羽?」が「どこに?」いるのかという疑問について、「正解」などを求めるわけではなく、自分の経験を立ち上げながら、歌の場面を想像し自ら映像化していく思考力を体験的に学ぶ機会とした。

自ら道を歩かずして道は覚えられず
現代語訳という「即席レトルト」を食べさせていいものか
森林で道に迷い、また材料を切り、味付けに配慮し、焦げ付きを避けてこそ・・・・・


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