授業研究と短歌
2017-11-03
なぜ授業は退屈になるのか?あなたも中高の授業で経験があるのでは
担当科目「国語科授業研究Ⅱ」で考えた覚書
高校時代などを回顧して、あの「国語」授業の喩えようもない空虚感は何だったいだろうかと思う。ある先生は古典文法などをただただ一方的に活用表などを板書して自分で喋っているだけで、ほとんど生徒で聴いている者は稀だったように思う。また現代文で単元教材の最初の時間などは、指名されて生徒が音読していくが、それも学級内でその音読を受け容れている者は少なく、昼休みの後などでは睡眠率が8割9割という悲劇的な授業も体験したことがある。そんな際に自分はどうしていたかといえば、眠るのはさすがに憚られたので自分なりの詩集や歌集を読んでいたのであった。国語にはもう一人の先生がいたが、その先生は生徒にじっくり考えさせようとするタイプで、自分から「正解」めいたものをすぐには決して言わなかった。だがあまりにも待ち過ぎて特段の手立てがないゆえ、次第にやはり退屈な時間とならざるを得なかったと記憶する。果たして「国語」授業が退屈で忌避される原因は何なのかと考えるのは、僕自身の体験から発する大きなテーマでもある。
後期3年生科目「国語科授業研究Ⅱ」では、教室での「声」をテーマにしながら3分程度のミニ授業を構想し、その有効性を実践的に探るという内容で行なっている。ちょうど昨日は「和歌・短歌」を教材にした音読中心のミニ授業を、受講者全員に実践してもらった。全体にわたって総評するならば、教材たる「和歌・短歌」の「説明」をする内容が目立ち、学習者が「音読」をする中から語彙や韻律に気づき、自ら考え始めるような実践が少なかった。前述した僕自身の高校国語授業経験で現職の先生でもその傾向が強いわけであるから、学生に至れば仕方ないとは思えど、なぜ「授業」というと「説明」をしてしまうのかと素朴な疑問をあらためて持った。考えるにこれは、短歌の批評にも通ずるものではないだろうか。所謂「説明」の短歌というのは、「そうですか」という読後感を抱くだけで、読者の心に響くことはない。「言いたいことを自分で言ってしまっている」というのも、歌会などでよく指摘される評語だ。こうした事例を挙げるまでもなく、短歌は対話的に読み手に考えさせる文芸なのである。どうやら学習者に考えさせる授業というのは、短歌を学べば腑に落ちると言えるのではないかなどと考えている。
「教え込もう」という教壇での傲慢
では自らその教材がどのくらい腑に落ちているか
主体的・対話的な言語作用は、短歌が培ってきた文化の中にある。
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