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過去の引き出しいくつものわれ

2017-11-02
時の過ぎゆくままに
今の自己は数え切れない過去に支えられている
その集積である「いま」をどう未来へと生きるか

11月となったが、ここまで例年になく早かった印象がある。夕食をとるために入店したレストランでは、早くもクリスマスソングが流れており、思わず「もう少し待ってください」とでも言いたくなった。だがいつもながら時は過ぎゆくままに、今の連続はこうしている「いま」でさえ決して待ってはくれない。そんな「流れ」に重りを乗せて、何とか留めようとするのが、こうして文章に記すことや短歌に詠む行為である。先日の中古文学会シンポジウムでも、「書く」とは「掻く」「描く」「刻む」などの動詞にに連なり、今ではこうしたPCなど機械類で文字を「書く」時代になったが、元来「文字」とは「時を掻く」「時を刻む」ものであり、小欄なども昨日という「過去」をここに何とか留め置こうとして8年以上の歳月が経過しているわけである。

流れた時間を流れたままにしておく人生というのは、虚しさが伴う。前述したように時間は前にしか進まないが、その宿命の渦中でも様々な場面と必要性に応じて、過去と現在を往還することで未来のあり方も見えてくるように思う。過去の引き出しにある「いくつものわれ」を取り出してみることで、「いま」の行動の必然性が見えてくる。仕事をする力も、生活上の衣食住でも、趣味・嗜好のひとつにしても、超え難く過去の「われ」と繋がっている。当然といえば当然のことながら、人はそれを忘れてしまっていることがある。例えば短歌ひとつを詠む際にも、こうした引き出しから、「記憶」という「宝」を出すことだと思うことがある。やや大仰な行為のようだが、「いま」の「われ」はこうした幾重もの「過去」によって形作られているわけである。

イチローがよく口にする
「野球に関するすべてのこだわりは、『生き方』の問題」なのであると
時計の針を止めて「われ」を見つめるには「掻く」「刻む」しかないことがわかる。


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