親子とは遠きにありて響くもの
2017-10-31
存在の原点としての父母お互い苦悩を抱えても響きあう間柄
あらためてふるさとは遠きにありて・・・
あっという間に10月が過ぎ去ろうとしている。和歌文学会大会開催のことばかりに専心しているうちに、という感覚である。だがその間にも在京の父が怪我に遭い、その症状や治療の方向性について、電話で母とやりとりを繰り返し気を揉んだ期間でもあった。本来ならすぐにでも上京したいという思いも押さえ込みながら、宮崎で「和歌・短歌」のためゆえに集中できたとも言える。ようやく2つ目の台風を横目にしつつ、怪我後の父を見舞った。怪我から1ヶ月ほど経過したこともあったが、思いのほかに元気そうで安心した。近所にある昔から馴染みの鰻屋まで歩いて行って父母と3人で食事をした。カルシウムを含めた栄養素抜群の鰻は、格好の食事となった。もちろん父も完食、こうして向かい合って接してみると、やや無口な父ながら息子への思いが伝わってくるようで、とても良い時間であった。
母もまたこの1ヶ月は闘いであった。父の病院への付き添いを始め、治療方針についても様々に考えを巡らし、家での安静な生活にも気を遣い続けた。また会社の請け負った進行中の仕事もあり、その差配にもテキパキと動き続けた。忙しいながらも宮崎からの電話を繰り返すことを絶やさずに、語り合うことでお互いの苦しさを紛らわして来たように回想できる。それを実感として会って生のことばで聞いてみると、僕が想像していた以上に父も苦しみ、母も苦しんだことが肌身に沁みて伝わって来た。宮崎での和歌文学会開催にあたり、この重責の苦しさは自分しかわからないと思っていたが、性質は違えど父母もそれぞれの苦しさを乗り越えようと必死だったことがわかった。ふと、親子とはこんなものなのかもしれないと思った。個々の歩む道で苦しさがあっても、無償の愛情で繋がり支え合うようなことばにし難い感覚。お互いがこのような気持ちを、ようやく発見したような帰郷であった。
思い遣るとは自らの苦闘を超えること
そこに何の見返りも期待せずただただ自らが進むこと
親子とは・・・・・・・そして楽しく語るもの
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