平安時代文学・文化における「音声」と「書記」
2017-10-29
中古文学会秋季大会シンポジウム「聞かれる物語と書かれた物語」
「声なるものの諸相」「正本(証本)」の問題などなど
今週は中古文学会が開催される静岡大学へ来た。変わらず台風22号の進路を窺いつつ、自宅のある宮崎の降雨状況なども気にしながらの参加となった。開催校としての和歌文学会のち1週間の学会であったため参加するか否か大変迷ったが、冒頭に記したシンポジウムはどうしても聴きたいと思ったので参加を決断した。学校での「音読」活動への疑問から、国語教育上の「声」の問題を考えて15年ほどになろうか。最近は牧水を中心とする近現代短歌における「声」と「創作性」「朗誦性」の問題にも興味がある。繰り返しての提示になるが、いまこの文章をお読みいただいているあなたは実態としての「声」は出してなくとも、心(頭)の内なる声によって、「意味」を生成しそれを理解しているはずである。「書くこと・読むこと」は表面化する「声」があるかないかの差によって、「話すこと・聴くこと」と対応しており、我々に「ことば」による思考や交流をもたらしているわけである。
シンポジウムでは「物語内で物語が語られる」こと、「書かれた物語の音声性をどこに見出すか」など物語テクスト内部の語法に見える「聞かれる」「書かれた」の問題。また藤原俊成の歌論「古来風躰抄」にある次の一節「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞こゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて良くも悪しくも聞こゆるものなり。」などが提起された。個人的には和歌の朗詠などには大変興味があるが、その上で「声が声で目的化」してしまい「日常の声」とは違うものになってしまう、という司会である学習院大学の神田龍身先生の指摘には、あらためて考えさせられた。「意味」を置き去りにした「声」の存在は、朗誦・披講の場や「素読」そして近現代に至る学校の「音読」の問題に連なると考えたゆえである。要点を押さえた質問にはなりそうになかったのでシンポジウムでは発言しなかったが、懇親会の席上で神田先生とこの点についてやりとりをした。神田先生の様々な物語・日記論を今一度参照しながら、この問題は僕自身の一つのテーマとして追い続けて行くべきだと心に決めた。またシンポジム内で早稲田大学の陣野英則先生が、「自ら校訂作業をするときに、音読をすると意味が明確化する」といった発言にも、物語の「声」を考える上で大きな示唆を得た。
「声」で創られる和歌・物語
「意味を理解しようとすれば必ず声を媒介としなければ成立しない」
あらためてオングの評論なども含めて「文学と声」の問題は実に興味深い。
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