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その謙虚さぞやがてかがやく

2017-10-11
毎月の結社誌に掲載される歌
「これぞ」と思ったものが選ばれていないことしばしば
自分の姑息な作意や技巧に溺れてはいないか・・・

月初めになると所属する短歌結社から『心の花』誌が届く。前々月末に締切の歌稿で8首の歌を出している中から、ほぼ半分の4首ほどが掲載される。もちろんよい歌が並んでいれば5首採られることもあり、各選者が「特選」とすれば8首に近い数が掲載されることもある。毎月届いた際に封筒を開けて雑誌を取り出し、自らの歌がどのように採られているかを見る折は、一種独特の気持ちになるものだ。自分なりには「自信作」と思っていたものが採られていなかったり、予想外にさっとできた歌が採られていたり。先月号で佐佐木幸綱先生の「今月の15首」に採っていただいた歌は、まさに自分では「大穴」な感じであったが、同じ歌を見る人が見ればやはり、それなりに高い評価をしていたという伏線がある。などと考えるならば、まずはやはり「歌が読める」(よい歌と評価できる)ことが重要であり、幸綱先生のことばをお借りするならば、「自分の歌が読める」ことが誠に重要であると云うことになる。

「教育」とは本来は謙虚に一人ひとりの子どもたちに向き合う仕事である筈だが、往々にして教師というのは「自惚れ」やすいものだと思うことも多い。授業でも自分の思いを子どもたちに押し付けるだけの権力を持ち得るだけに、その傲慢に気付かず生活上においても権威主義的な態度になっている例も少なくない。それだけに自らの言動において、常に謙虚で客観的な視点が求められるものだと自戒を込めて痛感する。教師であればこそ「自らの言動を自ら読め」なくてはなるまい。さもないと自惚れた姑息さを、優れたものと勘違いしかねない。これは誠に危うく、慎むべきことであろう。短歌に向き合うと、こうした意味でも自らの傲慢さや表現力のなさを痛切に感じとることが日常的になる。「伝わるだろう」という思い込みでは、多くの人の共感は得られない。毎月の歌会や結社誌は、痛切にこうした謙虚さへ眼を向けることを教えてくれる。そう簡単には「自らの歌は読めない」ものである。「教師」は特に・・・・・

短歌表現をしない人生なんて
傲慢さは何で検証し改善したらよいのだろう
掲載された歌とされない歌を今日も「自ら読む」謙虚さがやがて輝きとなる。

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