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「絶対」は超えるためにあるー全否定からは何も生まれない

2017-09-28
真の「絶対」などあるのだろうか?
「可能性がない」ことそのものが思い込みでは
今まで何度「絶対」を超えて来たであろうか・・・

何事においても、「極」に振れた物言いをする社会に危うさを覚える。素晴らしいならば「神ってる」と言い、厳しい状況ならば「最悪」、ついついちょっとした不都合に遭遇すると「最悪」と口走ってしまう自ら戒めることもある。本日付の「伊藤一彦短歌日記」(ふらんす堂)においても、「最低」の語を批判的に捉え「使用に当たっては慎重でありたい。」と指摘されている。特にこの「最低」「最悪」という全否定的な思考は、可能性の芽を摘んでしまい自らを負の連鎖に追い込んでいるので注意をしたい。それ以前に、果たして本当に「最低」や「最悪」なのであろうか甚だ疑問である。ことばの歴史を考えてみれば、古語にも「いと」(とても・甚だしい)があり、「いみじ」(善悪ともに程度の甚だしいさま)がよく使用された時代もあり、言語生活上「とても」「非常に」に相当する意味のことばは、次々と開発されて使用される実情がある。ここ数十年でも「超・・・」とか「鬼・・・」などは高校生あたりが使用し始めた所謂「若者言葉」が発祥であると、現職教員として体験して来た。

同様な語彙として「絶対」もある。「絶対主義」といえば「君主が絶対的な権力をにぎって人民を支配・統治する政治形態。」と『日本国語大辞典第二版』にあり、哲学上は「相対主義に対していう。」とされている。この語も本来の意味とかけ離れて、日常でよく使用してしまう場合が多い。だが使用された内容次第では、その本来の意味を考えてしまい「絶対など絶対にない」などと反発し苛立ってしまう自分を発見する。そのように考えてみれば、僕自身は今までの人生でどれだけ「絶対」を超えて来たであろうかなどとも考えた。高校の担任教師に「絶対に受からない」と、断言された大学に合格できたこと。現職教員の仕事を持ちながら「(休職でもしなければ)絶対に両立は無理」と、考えられていた大学院を修士課程・博士後期課程と修了できたこと。大学での教育経験実績を増やすために「次の専任職が決まるまで絶対に辞めてはいけない」と多くの人に言われながら中高専任教員を辞し大学非常勤講師の茨の道を歩き、専任職に辿り着いたこと。そしてここには記せないようなことを超えて、研究したいという志を貫いて来たのである。

むしろ「絶対」は「超えるためにある」のかもしれない
「希望」に希望が見えない時代
「絶望」するのは簡単だが、そこから立ち上がる人生こそ面白い。

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