fc2ブログ

上に立つものの信頼とは?

2017-09-26
こちら側に都合がよく聞こえて
建前を建前で上塗りするようなことば
上に立つものの理性とは・・・

小学校低中学年ぐらいまでは、いつも〈教室〉で気後れしていた。早生まれということもあろう、幼稚園などでは集団行動ができずに、確か「ひよこクラス」などと呼ばれる中で馴染むための時間に参加した。「右向け右、前へ進め」と言われても、一人だけ「左」を向いていた、などと未だに母によく言われる。そうした〈学級〉という「小社会」の中では、必ず理不尽なことを言う輩がいるものだ。「ドラえもん」の「ジャイアン」に典型的なように身体が大きいとか、あるいは声が大きいとか、家が金持ちとか・・・。子どもなりの何らかの権勢を傘に着て、自分の意のままに振る舞うのを、所謂一つの「ガキ大将」と呼んだ。こうした輩に必ず僕は圧倒されていたのだが、心の中では必ず「こいつの言っていることは矛盾している」と、子どもながら常に思っていた記憶がある。

その「矛盾」は「子どものみ」だと思っていたが、「大人」になってからもあることを次第に知った。中高現職教員という社会人として「組織」の中で働き始めると、やはりまた子どもの時には考えられないような正論を翳した「矛盾」に出会うことになった。「子ども」ならば「理不尽」は「理不尽」で「可愛い」ものである。「ジャイアン」は、決して真に嫌な奴ではない。問題なのは立派だと思われる「大人」社会の「理不尽」である。上に立つものとは、子ども向けヒーロー物の「隊長」のように、求心力があって信頼が置ける訳ではないことを知った。社会人は(特に日本社会の)社会人なりの「上に立つもの」の条件があるようにも思えて来た。才覚や人間性ではなく、社会を上手く泳ぐものが、必ず上に立っている。だがこの「上手く」という語感に限りない「理不尽」を「大人」になっても、いや「大人」であるからこそ強くこの上なく嗅ぎ取るのは、果たして僕だけなのだろうか。

上に立つものが際限なく幼稚になった
だがしかし「ジャイアン」にも及ばない
隠された「理不尽」を注意深く拒むのは僕たちなのだ。


関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/2880-f2e547d9

<< topページへこのページの先頭へ >>