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「傘」の意味など考えており

2017-09-25
「その人の孤独のような傘提げて足もとにしずく滴る車内」(小島なお)
「この国に日本人なる愚かさは秋晴れに持ち歩く蝙蝠傘(こうもり)」(小島ゆかり)
母娘の「傘」の歌から

秋分の日も過ぎ朝と夜の時間がほぼ均しい季節、彼岸花が所々に美しい。最近はSNS(Facebook)が「過去のこの日」などという写真を”勝手に”自らの頁に表示するので、意図せず「過去」と出会い、その時間的距離を実感することもある。「記憶」が支援されているような、余計な”お節介”のような。夏ほど晴天の日が続くわけでもなく、「秋の空」は変わりやすい。そんな季節柄、「傘」という生活用品の存在意味などが最近気になっている。先日の台風18号の折にニュース映像を観ていると、激しい風雨の中で必死に「傘」をさそうとして、むしろその「傘」を破壊に追い込んでいる街の人々の光景が放映されていた。皮肉な表現をするならば、自然の恩恵である「雨」を個人的に避けようとして、必死に「傘」なる文明の簡易な道具にしがみついているようにも見えて、やや滑稽な感じを受けた。それだけに「傘」は、喩として様々な「意味」をよむことができるようだ。

冒頭に掲げたのは、先日の県民大学でお話させてもらった小島さん母娘の「傘」の歌である。”基本的”に「傘」には「独り」で入るものだろう。一首目小島なおさんの歌は、最近『短歌往来』(ながらみ書房)「30代の歌」特集に掲載されたもので、「孤独のような傘提げて」と詠う。一人で電車内におり何も持たないのもまた孤独感があるが、「傘」一本を提げているというのも象徴的に「孤独感」が増すことに気づかせてくれる。「孤独」は当人がそのように思わず言わねば、「孤独」でないかもしれないが、「傘」からは正直にその「孤独」が滴り落ちるかのように写ると読める。学生時分にちょいと遊びや呑みで出掛ける際に、「折畳み傘」一本を手に持って来る生真面目な友人がいたが、彼の姿を見ると「あれだけはやめよう」と思ったことがあった。(どこか中年的な所作に見えたのもある)どうもその感覚に近いような視線を、この歌に読めて親しみが湧いた。転じてお母様ゆかりさんの歌も、「秋晴れに持ち歩く蝙蝠傘」という句跨ぎである下句の韻律のぶれ具合が余計にその行為の「愚かさ」を示しているように読めた。よく「英国人は傘をささない」など、雨ごときで慌てず余裕を持って生きよと言われることがあるが、「傘」への執着というのは、現在の世界の中での日本情勢を象徴しているようでもあり、「この国の日本人なる」という上二句における批判的な表現が、ピリッと利いた一首である。

宮崎ではすっかり車生活ゆえ車内に傘がある
それでも基本的に家を出るとき降っていなければ傘は持たない主義、と口では言う。
「入りたき傘に入れずうどん屋へ海老天一本つゆ湿りゆく」(愚詠)


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