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詩歌の〈授業〉と遊び心

2017-09-22
詩歌を読む己の感性
その共鳴を聴くには他者の器が必要となる
「詩歌を教えようとしない」授業へ

詩人の谷川俊太郎さんが80年代に出版された『詩の授業』という書籍の中で、竹内敏晴さんらと対談し「学校の教師は詩を教えようとしている。(詩は教えられるものではない。)」といった趣旨の発言をしている。長年の国語教育の反省からすれば、いわば「文学」には確固たる「主題」があって、その「作者の言いたいこと」を一つに集約し定めてまとめることを「授業」だと勘違いして来た実情がある。90年代以降の反省でだいぶこうした「詩の教え方」は改善されてきたが、今尚旧態依然な「教え方」に拘泥する授業が少なくないのも現実である。個々人が個々に生きている以上、詩歌の読み方も個々であるのが必然である。その表現に対して自己の経験を立ち上げなければ、情景も心情も想像することは決してできないゆえである。

「読解」は一定線内に収まるものであるが、「鑑賞」は多様であってよい。むしろ創作主体も予想もしない「読み」が現れることが、「文学」の楽しみでもある。まさに「読者」は「遊び心」を「楽しむ」のである。だがなかなか〈学校〉の〈授業〉では、「遊び心」を「楽しむ」ことはできず、むしろ〈教師〉の喜ぶ(であろう忖度を働かせた)「模範解答」という得体も知れず”つまらない”「読み」だけに収束しがちである。〈授業〉という表面上でこのような無理な拘束を受けるゆえに、日常性の中で抑えきれない感情が暴発し、よからぬ交友関係を招いたりする。TVニュースでも扱っていたが、SNS世代の昨今の若者は特に争い事を嫌い、たとえそう思ったとしても他者を批判せずにその場を無風に終わらせようとする傾向が強いと云う。SNSというある意味で「個」の思考がそのようであるからこそ、せめて詩歌の〈授業〉には「遊び心」が求められるのではあるまいか。

まずは教師が「ことばの力」に
正面から向き合うことであろう。
スマホにて「我」を無風に失へばいざ取り戻せ詩歌をよみて
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