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牧水の「身体性」そして「万葉集」ー牧水を語り合う会

2017-08-14
温めれば心が浄化して歌を詠む身体となる
「火の山にしばし煙の断えにけりいのち死ぬべく人のこひしき」(『独り歌へる』)
牧水研究会主催「牧水を語り合う会」にて

短歌三昧のお盆を過ごしている。一昨日は心の花宮崎歌会、この日は「牧水を語り合う会」が開催された。しかもご指名をいただき「牧水『短歌作法』によむ身体性」という演題で小1時間ほど発表をさせていただいた。『短歌作法』とは大正11年、牧水38歳であるから晩年に出版した短歌作法書である。所謂「作法書」は詠歌には役立たないと牧水自身も当該書に書き記しており、またこの会で伊藤一彦先生もそのように仰っていた。今回読み直した意図は、牧水の短歌に関する考え方を知るためである。特に牧水歌が「声の文化」の特徴である「力動性」を具えているのは、その「身体性」に根ざした歌作りをしていたからであろうという点を具体的に確かめてみたかったからである。「生命の力」をできるところまで「押し伸べていく欲求」を「歌にうたへ」という基本姿勢は、「顔や身体の美しく活き々」とありたいのと同様に、「心を活気づける」ものだと同書に云う。また歌ができない時は、「散歩・読書・入浴」に効用があることを説き、「瞑想的散歩」、「敬虔な音読」、「風呂で歌ができたら中音で声に」など、温める身体作用から再び歌心が昂奮することが記されている。もちろん「酒」の効用も記されていて、「尽きようとした感興がこの飲料のために再び焰を挙ぐる」とあるのは、非常に牧水ならではの説得力ある記述で面白い。

会の後半は、関西からお見えの田中教子さんによる「牧水の恋と死ー若山牧水と万葉集」のご発表があった。牧水第一歌集『海の声』・第二『独り歌へる』・第三『別離』には、「死」を詠む歌が多く、その多くが「恋」との関係にあり、万葉集の「朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋わたるかも」(巻4・599)などに見える「恋死」の類想があるのではというご指摘。小枝子との若く激しい恋が、牧水の歌にこうした感興を起こさせている。「恋死」とは、「恋しさのあまり死んでしまいそうである」「恋いこがれているより死んだほうがましである」「死ぬ思いだが、逢おうため死なない」「死んでも恋心をあらわさない」などと分類した青木生子の説も紹介され、牧水歌をこの分類に従ってよむことや、万葉の「寄物陳思」の影響などが指摘された。また与謝野晶子の歌との比較もなされ、牧水が第4歌集以降「死」を詠む歌が少なくなるとのは違い、晶子は生涯を通じて「死」を詠みつつも明治43年を中心に「死」「恋」の歌が多いことと、牧水との関連性を窺う視点が提供された。明治期における新しい素材としての「恋」、旧派・江戸以前の歌ではあくまで「恋」を観念として詠む歌があったのと違い、「私」を起ちあげる新しい歌への変遷が、この期の多くの歌人に表出していることを考えさせられた。また、この会には今年2月に牧水賞を受賞した地元宮崎御出身の歌人・吉川宏志さんもお見えになり、幅広い知見から多様なご意見をいただき豊かな対話となり、学びが大きかったことを書き添えておきたい。

心と身体と歌との関係性
「生命を伸長させる」こと、「心を浄める」こと
まさに内観し外の世界との差を見極め「命」を見つめるということ。

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