「正しさ」の強制が危うい
2017-08-12
「正しい」読み方を「正しい」解釈を
授業における「正しさ」の強要を考える・・・
「正」を手元の『漢字源改訂新版』(学研)で引くと、その字源は「一+あし」で、「足が目標の線めがけてまっすぐ進むさまを示す。」とあり、「征」(まっすぐ進む)の源字であるとされている。意味としても「まっすぐであるさま。」ならば対照となるのは「邪」の文字。「まともであるさま。また、まっすぐ向いているさま。」なら対照は「反」や「裏」の文字。「まじりけのない。」という意味なら類語として「純」の文字が掲げられている。また「中国の暦法で、一年の基準になるもの。」つまり「正月」という語彙はここから来ているわけで、「改正」という語に至っては、「王朝が変わった時、正月をいつとするかの規準を改めて、新たに暦を決めること」と解説されている。この「改正」という語彙の本来的意味に象徴さるように、「正」の規準というものは、権力を掌握した「王朝」によって違うわけであり、「暦」でさえも「改正」されていた時代があったことを考えさせられる。
こうした小学校低学年で既習の基本的な教育漢字というものは、上記のような字源などをあらためて考える機会が少ない。本来は高校の漢文教育がこの分野を担うはずであるが、現場における漢文の授業のあり方も、教科書教材文の訓読と口語訳に終始し、漢字文化の奥深さに言及されることは少ない。それは学習者というより、指導者がこうした意義を理解していない場合が殆どである。最近気になることは、学部の学生たちが模擬授業などを指導案段階から作ると、「・・・は正しいか正しくないか」という問いや、「正しい読み方」「正しい解釈」など「正しい」を冠して授業を進行する過程にしていることが多いのである。教室での「音読」が「正しく読めるか読めないか」を規準として実施されるゆえ、学習者は伸び伸びと自分らしい声で「音読」する気持ちが失せてしまう。もとより「漢字の読み方」そのものが相対的なもので、本来はその文体や形式によって多様な読み方があってよいものである。「唯一無二の正しい読み方」に怯えながら、萎縮した「音読」しかできなくなる〈教室〉を無意識に(そう無意識がさらには危うい)醸成してしまっている。この図式が暗澹たる歴史の再生であることに、我々は自覚的でありたいと思う。
「いま此処にいる」ことの自覚
あらゆることは「相対的規準」の上で
「当然」「問題ない」もあくまで恣意的な「正しさ」の上でしかない。
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