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「いとし子」を偲ぶ対話

2017-08-09
本学部附属小学校の門を入れば
必ずこうべを垂れる碑がそこにある
「いとし子」を偲びていま・・・

長崎原爆の日、また”かの夏”が来た。先月も紹介したが竹山広の「水のへに至り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子」の歌があらためて今朝から脳裏に反芻されている。竹山の歌は「生の怒りは、定型に収まらない」として、「字余り」「語割れ・句またがり」において「必然性があった。」とする島内景二氏の画期的な指摘を紹介しつつ、伊藤一彦先生が本日付「ふらんす堂」の短歌日記に歌を詠んでいる。昨日の小欄に記した「記憶」という点でいえば、既にかの大戦を忠実な「記憶」として留めている方々は、少なくなってきている。いやむしろ、それだけに未来に向けて「平和」を願う立場として、こうした竹山の「生の怒り」「生の描写」のことばを、我々が一人ひとりが反芻し続けることが求められる。ここに引用した竹山の歌の状況が、「あなた」と「母」であるとしたら、という想像をするだけで耐え難い「怒り」に心が揺れるのは、私だけではあるまい。

本学部附属小学校には、冒頭に記したような碑が建立されている。教育実習生についても出勤すると必ず碑の前で祈るようにと話がある。正直なところ私も教育実習担当になるまでは、碑の存在は知っていたものの、そこに手を合わせることはなかった。頻繁に附属小に足を運ぶようになった昨年今年に至っては、私も訪れた際には必ずこうべを垂れ手を合わせ「いとし子」を偲ぶようにしている。先日宮崎日日新聞に、この「いとし子」を偲び平和を願う主旨を書いた附属小の児童の文章が掲載された。するとその犠牲になった「いとし子」の先輩にあたる市民の方から、学校に葉書が届いたと校長先生が実習事前指導で紹介していた。1945年5月11日、宮崎への大空襲によって、集団下校中であった附属小の児童12名が犠牲になった。葉書は、その3月まで同班の班長を務めていた方からの重い言葉であった。「いとし子」の碑があることによって、12名の「後輩」そして今の児童にとっての「先輩」(新聞掲載文章には、そう書かれている)として、向き合う対話がここに成立したのだ。「平和を願う」などと簡単に言うのみならず、自らが集団下校中に空襲を受けたらという、あってはならぬ「過去の事実」に自分を起ちあげて想像することが何より必要だということだろう。

あらためて竹山の短歌を読みたい
ことばはリアルにかの夏を再現する
今日も長崎で平和の鐘が鳴る

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