記憶は「物語」ゆえ短歌になる

2017-08-08
「記憶」は「録画」なのだろうか?
「記憶」は自己の解釈を基に書き換わるもの
短歌は過去を書き換えられるとすれば・・・

朝ドラもあと2ヶ月となって佳境に入ってきたのだろう、主人公みね子の行方不明になっていた父親が記憶を失った状態で居場所がわかり戻ってきた。父親は東京の雑踏で出稼ぎの給与をひったくられ、「家族のための仕送りだから返してくれ」と犯人を執拗に追い詰めた際に、頭を棒で殴られたことを発端とする悲痛な経験によって記憶を喪失させたという設定になっている。こうした外傷性・ストレス性の記憶喪失のみならず、老人性・病理性による記憶障害の問題は、誰しもが他人事ではない高齢化社会・ストレス社会が現状では目の前に厳然としている。家族が家族のことを「わからなく」なってしまうという事態に、われわれはどう向き合ったらよいのだろう。「東京」という人間性を失った都会が、父親の記憶を奪ったともいえる朝ドラのストーリーは、そんな家族が「肩寄せ合って」父親の記憶を回復させる物語へと向かっているように思われる。

地元紙・宮崎日日新聞8月7日付「現論」欄に、元陸上選手の為末大さんが寄稿していた。タイトルは「記憶の書き換え」で、過去の自身の競技経験を振り返り「認知心理学の世界では人間の記憶は曖昧で、無意識に再編集されるということがよく知られている。」と云う。特に「トップアスリートほど過去を書き換える傾向が強いのではという仮説を持っている。」として、「未来に希望を持てるように、(トップアスリートは)過去を再編集する癖がついている人々」なのだと記されている。いわば、「正確に言えば過去に起きた出来事は変えられないが、『意味』は変えられるというべきだろう。」ということで、「人間は現実ではなく物語を生きている」というのが、為末さんの「競技人生から学んだこと」だと結論付けられている。現実に同じ場所で同じ経験をした人でも、後日話をするとその内容に齟齬が生じることはよくあることだ。「現実世界」は各人が各様な解釈で切り取り編集し、自己の記憶装置の中に保存しておくということだろう。だからといって、ほとんど「解釈」に幅のない「誰それと会った」などという「現実」を、「記憶が定かではない」と公の場で逃げ口上にするのを肯定する気は毛頭ない。明らかにそれは人間性を喪失した政治社会によって、個々の中で腹黒く「編集」された結果の発言に過ぎないだろう。公にこうした「編集的」言動が繰り返されると、社会は「言葉」への信頼を極度に失墜させる。その一方で、短歌はどうだろうか。「過去」の「意味」を存分に内面で省察し、まさに自己にしか表現できないことばと息つぎによって表現しようという、美しく肯定的で真実を探究しようという「編集」なのである。この世知辛い社会であるからこそ、短歌によることばの復権が必要なのではないだろうか。

「希望を持つための『癖』」(為末さんの記事見出しから)
「生きる」ことが「記憶」であるとしたら
自分に真摯な「編集」をし続ける行為こそが、短歌である。
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