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〈私〉とは誰か?ー〈詩型〉の〈強制力〉を考える

2017-08-06
台風接近の家でひとり
果たしてそれは〈私〉それとも私
〈一人称詩〉について考える

小欄をお読みいただいて、その内容はどれほど「事実」なのかとお考えになったことがあるだろうか?「プロフィール」欄の”Author”には「研究室」という表示。大学の「研究シーズ集」という冊子に載る「研究室紹介」の「HPなど」にアドレスを掲載しているので、「研究室」を「主語」として考えるべき「テーマ」について、ひとりか?はてまた複数?の「誰か」が、今この文章を綴っているのかなどという書き手の想定をしたことがあるかということでもある。SNSを中心としてWeb上の〈私〉は実に曖昧であり、仮構したいわば「匿名」によって、言葉が投げられるところに大きな問題も孕んでいる。特に日本の場合は、この「匿名性」に対する意識が非常に稀薄で、いわば「褻」の生活をWebを介して世界に晒してしまっていることへの意識が低いように思う。米国の大学生たちと話した際に、SNS投稿が就職を希望する会社に一覧されることを入念に意識して使用していたのとは、大きな差が日本の学生たちにはある。

話は迂遠したが、昨日紹介した『作歌の現場』(佐佐木幸綱著)の第二章「詩型の強制力」において、短歌の〈私〉について深く考えさせられた。特に近現代短歌では、「一人称代名詞を補って解する」ことが〈詩型〉によって〈強制〉されるという傾向が強い。散文中なら「君は」「彼は」を補って読む可能性があっても、短歌となれば〈私〉を補って読むことが暗黙の了解となっているわけである。現に歌会でも匿名で歌を批評し合った後に、二次会で自らの歌についてコメントしようとすれば、「どんな事実たる体験があってこの歌を詠んだのか」という内容を吐露することが求められている。学生との短歌会でも名前を明らかにした後には、詠み手は現状でどんな「体験」に身を置いているのかを前提として話が進行する。とりわけ私などが「恋歌」めいた詠草を提出した後には、その情報を基準に懇親会などで学生から質問を受けることも少なくない。だがしかし、まさにこれは「近現代短歌」の大きな特徴であるという大局的な視野をもって考えておくべきではないのだろうか。古典和歌においては「代作」「題詠」という「システム」が、「〈詩型〉の〈作者〉への干渉を断ち切る」と『作歌の現場』では指摘されている。「古典和歌にあっては、〈一人称詩〉でありつつ作中の〈私〉は生ま身の私からかなりの程度自由であった。」というわけである。となれば、「古典」でも「短歌」でもない小欄の文章については、どのような解し方が適切なのか、それは読み手のみなさんに委ねられているとしかいえない。

「作歌とは、生ま身の私を作中に押し上げ〈私〉という俳優に変身させる試みだ」
(『作歌の現場』より)
〈私〉と(生ま身の)私・・・「事実」という頼りなさを考えつつ
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