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漢字の読み方の必然性を考える

2017-08-02
「和歌」は「やまとうた」
「漢語」に対して「和語」
「読み方」も覚えなさいではなくて・・・

漢字の「読み書き」というのは、日本における教育の中でも様々な問題点を含んだ歴史の中にある。その教育の困難さから、「漢字廃止論」が浮上し「ローマ字書き」案が提唱されたのは、第二次世界大戦後に始まったことではない。最近、Web記事で国文学研究資料館長に就任したロバート・キャンベル氏が、「日本人が古文を読めなくなったのは、言文一致があったからだ」といった趣旨をインタビューで答えていたようだが、問題は「言文一致」のみに留まるものでもあるまい。江戸期や明治初期までの漢文脈と西洋語(文化)の大量流入の問題、遡れば奈良・平安朝の和漢交流の問題など、日本語(日本文化)そのものの歴史の中から考えるべきであろう。

教職大学院生と、9月実習の授業案について検討を繰り返している。中学生に古典和歌をどう教えるかという問題は、そう簡単なものではない。だが古典を扱う意義というものを、どう捉えておくかで、動機付けの強い主体的な授業を構成することも可能だ。漢字の読み方一つでも、古文の文体ならば「和語」で読むという必然性を見出し、日本語そのものへの興味を掻き立てるのが、「言語感覚を豊かに」する授業ということになろう。もちろんこれは漢文教育にも連動しており、漢語を音読みすることが、江戸期の漢学の傾向を引き継いだ明治期の影響が大きいことも指導者としては知るべきではあるまいか。平安期の大江千里集(句題和歌)が、単なる「翻案した歌」としてよいかどうか?春先の中古文学会における齋藤希史氏の発言が思い出される。

「こう読みなさい」と教え込むよりも
「なぜこう読むか」と考える授業をしたい
「国語教室」は、あまりにも知識提供の場であると勘違いされている。

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