「からくれなゐにみずくくるとは」よみの歴史を遡及する
2017-07-16
「ちはやぶる神世もきかず龍田河韓紅に水くくるとは」(『古今和歌集』秋下・ニ九四番歌)
『百人一首』にも入る著名な歌の解釈と読み方のことなど
和歌文学会7月例会が、東京・品川の立正大学で開催された。いずれも興味深い発表が3本なされたが、特に冒頭の業平歌についての考察をされた森田直美氏の「水は括られたのかー在原業平『ちはやふる神世も聞かず』歌の再検討」には、自分の研究領域に近く様々な気づきを得た。現代においても、『百人一首』入集の著名な歌となると、その解釈なども定番となって疑う視点が少なくなるが、『古今和歌集』入集以来の長い注釈史・享受史を考えて再検討すべき点が多いことに気づかされる。当該歌も初句「ちはやぶる」と表記されがちだが、中古中世時代のことを考えると「ちはやふる」と濁音化しないで読むことが妥当という一説も紹介された。あらためて『古今和歌集』であれば、1100年以上の「よみ」を遡らねばならないことを念頭に置くべきであろう。
森田氏のご発表では、「水くくるとは」の「くくる」の解釈に注目し、現代において通行している「水をくくり染めにする」といった解釈に疑義を呈し、中世古註でなされていた「潜る(くくる)」という解釈へと再考すべきというものである。この歌の注釈史において近世になって賀茂真淵が「絞り染め」というよみを提出してから、一斉に解釈がこの方向性に偏ったことを指摘する。その要因として、「文悪意匠と小袖」のデザインが普及したという服飾環境の変化が作用したのではという興味深いものであった。このご発表に対して僕は、『古今和歌集』において素性法師の歌に続けて配置され、その詞書で「御屏風に龍田河に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる」を重視して、歌配列によめる当時の解釈についても考えれば、より一層「潜る」というよみの妥当性を補強できるのでは、という質問を投げかけた。さらに他の方の質問で、「なぜ『ちはやふる神世もきかず」と大仰な物言いをしているのかについても、下句との関係から考えるべきでは」といった方向性についても、あらためて考えさせられた。『古今和歌集』仮名序の業平評には「心あまりて詞足らず」とあるが、このよみを含めてまだまだ考えるべきでは点は多々ありそうである。
ひらがな表記ゆえの多様性をどう読むか
固着したよみから歌を常に開放し続けなければなるまい
近世・近現代と僕たちが生きている時代を俯瞰してみる必要もある。
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