あらためて「句切れ」を考える

2017-06-29
「君待つと吾が恋おれば
 我がやどのすだれ動かし
 秋の風吹く」(額田王の歌から)

冒頭に著名な額田王の歌を、敢えて三行書きで記した。通常、和歌・短歌は一行で書き切ることができるので、それを読む(特に音読)際には読者の裁量に任されてしまうことが多い。一行の和歌・短歌を読む際に「裁量」がいるのかと思う向きもあろうが、そこが大きな問題だと思っている。『新古今』あたりから確立する七五調の三句切れによる韻律の旺盛、連歌・連句から発句へと到り俳諧そして俳句となって「五・七・五」の独立性が高まったこともあってか、現代の人々がもつ韻律の感覚はほとんどが「七五調」である。『百人一首』カルタの読み札も、上の句・下の句で間を置いて読むのが通例であろう。もちろん、明治時代の『新体詩抄』が「七五調」を前面に押し出して近代詩を確立しようとした意図の影響も大きい。このような様々な要因が考えられる中で、交通標語などの日常的な言葉の韻律としても「七五調」が「常識」になってしまっているように思われる。

例えば牧水の著名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の歌などを、様々な機会に音読していただくと、ほとんどの方が「空の青」まで読んででいったん間を置く。だが意味をよく考えてみれば、「哀しからずや」の「や」が文法的に詠嘆になるゆえ、二句目で間を入れることによって「空の青海のあを」を連続的に読みその対照性が生きてくる。さらには「染まずただよふ」が独立性を持つことで、実に重厚な結句として一首全体を受け止める読み方となるのである。『万葉集』においては、長歌・旋頭歌などの歌体との発生起源にも関連し、その相対性の中で「五七調」の韻律が重用される歌が多い。もとより「なぜ五音・七音なのか?」という点についても国語学的に多くの論調があるが、奇数音であることによって各句の中が”均等割”ができないことが大きな要因だと考えられている。その上で五音・七音を比較すると、五音は「三拍」の拍節、七音は「四拍」の拍節であることが大きく作用している。字数はともに奇数で均等割ができないが、「拍節」に関しては「奇数(拍節)」と「偶数(拍節)」が組み合わされているあたりに、やまとうた1300年の歴史の連綿性を見るのである。

「句切れ」そのものがわからない範疇にある
歌の音読そのものがやや閉鎖的な環境に置かれ続けてきた
歌の「音読」そのものの意義をあらためて考えるべきであろう。
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