「明日あらば明日」を梅雨に思いて
2017-06-23
「雨荒く降り来し夜更け酔ひ果てて寝(いね)んとす友よ明日あらば明日」(佐佐木幸綱『直立せよ一行の詩』1972より)
「私たちはあまりに多くの問いを持ちすぎている。」と前書きにあり。
運動経験があればすぐにわかることだが、肩肘張った硬直した身体では決してよい動きはできない。打席に入って構えがガチガチに固まれば、球も見えずバットに当たりはしない。倒立は固まっているように見えるが、実は肩の柔軟性によってしなやかに身体が支えられてこそ成立する。「直立せよ一行の詩」という歌集名が、学生時代から好きであった。特に佐佐木幸綱先生の「男歌」たる「直立」への憧れから、むしろ古典和歌の淵源に遡る研究へ眼が向いて行ったのかもしれない。研究とは「問い」を発することである。ある意味で肩肘張って硬直した身体が求められて、順序立てて反論を排し筋道立てて探って行くしかない。それならば短歌を詠むことはどうか?あらためて幸綱先生の歌を読んでみて、その「直立」は決して「硬直」ではないことが”少し”わかった。
「本当は一つか二つの〈なぜ〉で人間は生きられるのかもしれない。」と冒頭の前書きは続く。さらに前に置かれた文として「酒には、〈なぜ〉がないのがよい。」とある。「嘆きの顔」をしていれば、自ずと身体は「一本の棒」のごとく硬直する。打席で思うような結果が出ないと、守備についても精彩を欠き、負の事象は連鎖して「堕落」を招く。野球におけるこのような流れは、プロの一流選手でもあることで、幼少の頃の後楽園球場で当時の「王選手」が打撃練習で思うように本塁打が打てない姿も観たことがある。ちょうど2ヶ月前の4月22日夜、幸綱先生と御次男・定綱さん、そして伊藤一彦先生と四人で兵庫は伊丹の銘酒を深夜まで酌み交わした。まさにその時の僕の身体に〈なぜ〉はなかった。そんな時間的遡及そのものにも、もちろん〈なぜ〉はなくてよい。「直立せよ」への浅はかな理解を自然に超えて行く過程に、意図せず存在する自らの身体を見るのみである。
「無数の〈もし〉の中の一つに選ばれし嘆きの顔ぞ鏡を外れよ」
「機嫌の悪い今日は一本の棒として過さんにああ息の純白」
「言ってみろ君の堕落の質を深さを五月雨の日に誰に問うべき」
「魂極る内に打ち合う石礫六月に入り激しと告げ来」
「あかねさす昼から夜へ飲み通す紫陽花の花咲く昨日今日」
「わいせつの林のみどり色の風さやさやさやに人ぞ恋しき」
(佐佐木幸綱『直立せよ一行の詩』1972より)
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