「なにとなく君に待たるる心地して」宮崎大学短歌会「自由題」
2017-06-21
「なにとなく君に待たるる心地して出でし花野の夕月夜かな」(与謝野晶子)
いつかどこかで読んだことのある・・・
ある街やある駅の景色を見ると、「いつか此処に来たことがある」と直感的に思うことはないだろうか。また夢の中で「また此処に来た」と思える場所を見ることはないだろうか。これは「文学」上の「此処」の場合でも同様で、体験的に「読んだことがある」に出会うことがある。文学理論的な物言いをするならば、我々は「内面の共同体」の上で「文学」を享受しているということになる。そのなんともいえない思い出すような郷愁とか、過去の貴重な経験の反芻によって、人は人生を一本の糸のごとく紡いでいるのかもしれない。このような経験的な「読書」という行為も「国語」が学習者に提供する大きな役割に違いない。とりわけ短歌の場合は、この「読んだことがある」という感覚が起動することで、こころに訴えかける歌に出逢うことが多い。
メールやSNSが全盛の時代にあって、「なにとなく君に待たるる心地して」という感覚そのものが失いかけたものなのかもしれない。だが似たような感情を抱いてメールやメッセージをすると、相手からもほぼ同時に送信されて来たという経験はないだろうか。それはあくまで偶然なのか?それとも”テレパシー”でも通じているのであろうか?そのタイミングが頻繁に一致すればするほど、相性のよさを実感したりするものである。「待つー待たれる」という関係性が「性急さ」へと変質した現代の事情については、哲学者・鷲田清一の著名な評論がある。そのような現代にあってもやはり、「なにとなく」の「心地」を実感することにはある種の深い情趣を覚える。現代社会の性急で高速化した時間軸の中にあって、穏やかにその一点を摘み取るような短歌に出逢うと、実にホッと安心した心境になるのは僕だけではあるまい。
学生たちの歌から感じられた
晶子・牧水らの歌の一節
短歌に出逢うことで「待つ」感覚さえも回復することができるのである。
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