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結果ありきに骨を抜かれる勿れ

2017-06-16
〈教室〉における「国語」の発問
一つの「正解」が決まっているとすれば
みんなが考えなくなり骨を抜かれるがごとくに・・・

大学院在学時に「国語教育」を御教授いただいた大平浩哉先生は、授業でいつも「国語の正解は一つか?」という問いを批評的に我々学生に投げ掛けられていた。長年、文科省教科調査官をお務めであった先生は、全国でかなりの数に上る授業を参観していたと云う。その現場での実感から「国語の答え」を「一つ」にしていることが、子どもたちの思考力・想像力を剥奪し、その延長上で「結果ありき」ゆえ興味の減退を招き、「国語」という教科そのものが頽廃してしまっているといった趣旨を訴えていらした。それならばどうしたらよいか?それは大平先生の御著書『国語教育改造論』等に記されており、今でも新鮮な論として参考になる点が多い。例えば、小説・物語で「ある場面での登場人物の心情」が問われる。表現を根拠にして多様な捉え方が可能であり、個々の経験を起ち上げて考えて、他者との違いに気づくことで「自己」の思考の傾向を知る。こうした「国語」であればこそ、子どもたちの思考力は柔軟に育まれる。

ところが今でも、知識偏重・「正解」主義的で意欲減退を招きかねない「国語教室」が存在しない訳ではない。いくら考えても最後に到る結果は決まっており、それゆえに子どもたちは「多様な考え」をすること自体を諦めてしまう。例えば〈教室〉で、ある子どもが発表したとしても、周囲は「同じです」を大声で連呼し、既定路線の「一つの答え」を疑問なく受け容れていく。「多様さ」がなく「一つ」に決まった方が教師としても進行が円滑になるので、「授業技術」の上では「上手くいった」と安易に判断し甘んじてしまう。実際はこうした「国語教室」が今でも多数存在しているのではないだろうか?となると、思考の上で頽廃した姿勢の子どもたちが育ち大人になっていく。社会の中で起こる事象もきっと「結論は同じ」だと思い込み、批評性を失っていく。すると自由な「表現」をはじめとする基本的な「権利」をも、平然と放棄してしまう輩となりかねない。一昨日まで3日間の実践のように、声優さんに触発されて個性的な「多様な声」で表現し、「まとめ」など敢えてしない開放的な「表現活動」の場こそが、〈教室〉に求められるのではないだろうか。

「結論」が暴力的に押し付けられる
「主体性」こそが国際基準の個のあり方ではないのか
「教育」という「装置」の責任をあらためて痛感する日々である。
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