子どもたちは表現意欲の塊
2017-06-14
手を挙げて個々に演じる我も我もと発表したいと
正解がないから表現してこそ・・・
昨日に引き続き附属小学校の鑑賞教室へ。この日の対象は低学年の子どもたちであるが、高中学年にも増して表現意欲に満ち満ちており、機会になるとほぼ全員が発表せんと手を挙げ「ハイ・ハイ」と声をあげている。これは鑑賞教室に限ったことではないが、思考よりもまずは身体が反応している印象である。特にこうした「声」のワークとなると尚更で、「文字」の領域を超えて「声」の世界に戻って生育しているのではと思うことしばしばである。こうした光景を眼にするたびに、元来子どもたちは「表現意欲」の塊なのだと実感する。自分から「何かを言いたい」、感じ取ったことを自分なりに「声」にしてみたいという、本能的な訴える力を子どもたちは備えているように思われる。冷静に見ると、さながら「孤」で生まれてきた人間が、「他」と繋がりを深めて社会生活を営む本能的な衝動なのではないかとさえ思うのである。
だが、こうした発表意欲は発達段階とともに減退し、中学校・高等学校へと進むとむしろ個の内に閉じ籠る傾向も強い。それもまた必然であるとすれば、やはり「学校」や「指導者」が適切に表現の大切さを説き続けるしかないだろう。しかも現代の子どもたちは、スマホなどが身近になったことでWeb上での情報受信や発信には、高い興味を示すことになった。Web上が「全世界」だと言えばそれまでだが、実際には使い方によって誠に閉塞的な「世界」だけで送受信を繰り返しいる場合も稀ではない。リアリティのある生の声による「ことば」に反応し自らも「ことば」を声にして返す、という人が他者とつながるための根本的な「対話」環境を、意識して醸成する努力が必要になっているのかもしれない。幸い附属小学校・中学校の児童生徒たちを観ていると、「表現意欲」が極端に減退することもなく、思考力を伴いつつ健全に成長している姿が随所に窺えてある種の安心感を覚える。
声優育成をしていると
リアリティのある表現が困難な若手もいると云う
人間にとって「声」とは「表現」とは何かと、あらためて考えさせられる日々である。
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