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時代に応じて抗う狭間

2017-06-10
「今」を生きていること
その「今」が一番わかりづらいのかもしれない
応じて抗う生き方の狭間・・・

4年生の教育実習研究授業も、すべてのゼミ生の実習校での参観を終えた。3年次附属学校での基本実習からすると、各自がその課題を解決して授業に臨んでいる姿を見て、大きな成長を感じ取ることができた。ゼミ生の授業づくりとは別問題として、今回の参観を通して考えさせられることが何点かあった。その一つが、教材などに対する「共感・納得」という問題である。ある教材を読んでその内容に「共感・納得」できたかどうか?もとより「できたかどうか?」という「肯定・否定」での問い掛けそのものが、どうなのであろうか?この問いは「あなたは個人としてどう思うか?」に代えられないのだろうか。〈学校〉という「教育装置」は、往々にして「共感」を求め強要する場合が多く、例えば行事作文でも読書感想文でも「共感」を「書かなければならない」という無意識の足枷が作用してしまい、文章そのものを嫌悪してしまう学習者も少なくない。

むしろ「思考力・想像力」を育もうとするならば、「個々のどうであろうか?」という問いから発し、他者と「同じです」よりも「どう違うか」を見定めてこそ目的に適うのではないかと思われる。だがしかし、やはり〈教室〉という「装置」の中では、「一つにまとめる」という作用が無意識にはびこり、なかなか「どう違うか」を取り上げづらい空気に支配されてしまう。その教育現場のあり方の延長上で、怖ろしいことに社会そのものが形作られているようにも思う。「異論」そのものを、軽薄な「操作」だと貶める議論の手法。まったく「お門違い」だと笑みを浮かべて取り合わない態度。「異質」なものは信憑性がないと決めつけ、深く掘り下げる行為そのものを実行しない姿勢。いずれも批評性なき「共感・納得」が前提になっている意識から、もたらされる作用ではないだろうか。だからこそ「今」を生きる僕たちは、応じて抗う生き方の狭間を極限まで意識する必要があるようにも思えてくる。それが具体的にどうであるか?それもまた「個々のどうであろうか?」という問いの上に成り立つ。

だからこそ、ことばで足掻き苦しむ
抗う者が歴史を創る
受け止めてなお考えるということ
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